第三弾
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「一直」(日本料理)6代目江原 仁さん |
江戸時代から続く老舗の日本料理店「一直(いちなお)」の6代目主人。 |
江戸時代にさかのぼる「一直」の歴史 |
――現代にいたるまでの、「一直」の歴史を教えてください。 |
七五三の時の家族写真、四代目(中)五代目(上中)六代目(前右) |
私の祖父に聞いた話なんですが、初代は鳥屋の直次郎といいまして、埼玉県の鴻巣で茶店と生け花の師匠をやっていたそうです。 |
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最も古い明治時代の一直の料理広告 |
桜にちなんで、看板料理は「桜豆腐」でした。新鮮な芝エビの皮を剥き、刃打ちしたものを桜の花びらに見立てて豆腐にのせ、さらに葛あんをかけたあんかけ豆腐です。これが評判になり、観音様にお参りに来る人たちが、桜豆腐とお酒でちょっと一服、というのが粋だったようですね |
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神谷バー創始者 神谷伝兵衛氏(前列右から2番目)と四代目(その左となり) |
激動の時代を生きた、4代目の祖父 |
――3代目が盛り上げた店を4代目が引き継いだのですね。 4代目は養子で江原松三郎といい、これが私の祖父です。祖父は大正から昭和にかけて店を盛り上げました。時代柄、軍人や財界人が主な顧客となり、庶民的な店だった「一直」も高級料亭へと変遷していきます。関東大震災、その後の大火で店舗は2度焼失していますが、その都度建て直し、隆盛を極めたのです。 |
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浅草寺を中心とする浅草の花柳界は、戦前は芸者衆だけで1000人を超えるほど栄えていました。料亭も100軒近くあったと思います。当時は料亭、置屋、芸妓の三者が「見番」に集まって一つの三業組合を作っていました。 |
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ところが太平洋戦争になると、観音様を守るために「間引き疎開」が行われ、商売をやめることになり、「一直」の建物の一部は三鷹にあった中島飛行場の迎賓館に移築されることになりました。 |
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「関西風」を取り入れた5代目・父 |
――6代目の江原さんは昭和9年生まれとのこと。激動の中で、4代目のおじい様と5代目のお父様の背中を見て育ったのでしょうか。
はい。話は少し戻りますが、関東大震災後、銀座に関西料理が進出してきてカウンター料理を始めました。東京の料理屋は座敷料理で台所を見せないのが普通でしたが、関西はカウンター越しに料理している姿をお客に見せたのです。これは一大センセーションを巻き起こし、東京の料理屋のスタイルを変えていきました。 |
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東京湾が開発されたりして、江戸時代から続いた東京の江戸前料理が下火になる中で、関西料理は四季の素材が豊かで、まだまだ勢いがありました。父はそういう、関西のいいところを学んできて、「関西風」を「一直」の料理に取り入れたのです。 ――お父様は「一直」の料理を改革したと。 そうです。ですが、父は1965年、胸を患って57歳の若さで他界してしまいました。戦争で料理屋ができなかった時は町工場で強制労働もさせられましたから、無理がたたったのでしょう。 |
父を引き継いだ6代目の心意気 |
――お父様の後を6代目として継がれるにあたって、仁さんはどのような修行をされたのですか?
高校を卒業した私は、父と同じ「つる家」の大阪本店に勉強に行きました。そこで3年修行して東京に帰ってくると、「一直」の料理がなんだかやぼったく見えてきたんですよね。よく父に、「こういうふうにしたほうがいい」とか「何でこういうふうにするんだろう」と疑問を投げかけたものです。 ――6代続いた「一直」。自分の代ではこれをやった、あるいは今後、こうしていきたいということがありましたら教えてください。 |
三浦文子(左) 山本真由美(右) |
私の祖父は、東京の料理屋の組合長をやっていましたが、父はそんな祖父の代に反発して、若手が新しい料理や日本料理のあり方を考えようと、上野「同花」の須賀さん、銀座「竹葉亭」の別府さんらと「芽ばえ会」という料理屋の二世の会を昭和8年に結成しました。この会は全国に波及し、東京だけだったものが全国組織になったんですが、私は昭和53年~60年くらいまで、その9代目会長を務めさせていただきました。その後も「全国料理環境衛生同業組合」の副組合長を務めるなど、日本料理界の発展に貢献してきたつもりです。 |
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