人名帖

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浅草を愛し、慈しみ、育て、守ってきた沢山の人々を人名帖にまとめてみました。
あなたは何人知ってます?
名前を聞いたことあるけど、
なるほど「あ!あの人!」ってわかりますよっ!

Lets try!

こんな人もいたとか、この人はこうだとか、その人にまつわる思い出話し等、
どしどしお寄せ下さい。似顔絵もgoodです。

    芸能オペラ作家歴史その他


“演芸”といえば、浅草六区!!

浅草六区の興行街には劇場、映画館、寄席などが20軒近くも軒を並べ、
休日には兵隊や、そのころ「丁稚(でっち)」と呼ばれた若い労働者、学生などでにぎわった。
映画の入場料が一流封切館で20銭のころ、割引が常識の浅草では7銭がふつう。
丁稚でも浅草では1日遊べたんです。

演芸博士
「浅草い~とこ」演芸博士

そこで六区の歴史を少々…

1873年 東京都は、花見の名所として知られた浅草寺など5ヵ所を「公園」に指定した。
1884年 東京都は浅草公園を6つの区域に分け、浅草寺の西の外れにある湿地を埋め立てた「第六区」に見世物小屋を移動させた。
1903年 当時の興行の主流は歌舞伎や小芝居だったが、日本初の常設活動写真館、電気館の開場を皮切りに洋風建築の映画館が次々に建てられる。
1912年 日本での本格的なオペラがお濠端の帝国劇場で初演された。英国から招かれたお雇い芸術監督の指導のもとに上演されたオペラ(正確には台詞のふんだんに入ったオペレッタ=喜歌劇)は、「♪恋はやさし野辺の花よ~」の流行歌を生み出した。



芸能 オペラ
「浅草オペラ」喜劇団が人気を博したのは、

1917年から、関東大震災の起こった23年までの6年余り。

以後、一流の演出家や歌手、役者たちが続々と出演するようになる。

現在活躍中の有名人、浅草に関わる人、結構いるんですよ!

青空球児(あおぞら きゅうじ)
「ゲロゲーロ!」の球児は、東洋劇場で萩本欽一の一年後輩。森川信の芸能学校の出身。
東八郎(あづま はちろう)
浅草時代、舞台で真後ろに立ってる奴が何かやると途端にパッと振り向いて的確なツッコミを入れ、幕内の人間に「東の後頭部には目があるらしい」と言わしめた。 志村けんのバカ殿様の家老役は有名。コメディアンを志し、30年にはフランス座、東洋劇場などで活躍しだした。 浅草公会堂のスターの広場にも手形が残されている。
阿部昇二(あべ しょうじ)
坂上二郎の師匠。
渥美清(あつみ きよし)
昭和3年生れ。昭和28年、浅草フランス座のコメディアンとなるが、酒の飲みすぎで病気になり、2年間療養。昭和31年、関敬六、谷幹一とスリー・ポケットというトリオを組んだが、離れる。昭和44年「男はつらいよ」が大ヒット。 有名な寅さん。「男はつらいよ」の主人公で車寅次郎役で人気スターに。不遇な時代が浅草時代(フランス座)である。
浅草陣太(あさくさ じんた)
ターキー(水の江 滝子)の唯一の弟子。
浅香光代(あさか みつよ)
昭和6年生れ。9歳で浅香新八郎・森静子一座に入る。わずか14歳で座長になる。女剣劇の全盛時代、浅草六区の劇場9館のうち、六館で上演される人気だった。三羽ガラス。 昭和30年代、浅草でお色気女剣劇の第一人者となり、現在も一座を率いて活躍中。 浅草在住といえば、この人。飼ってる猫ちゃんも幸福の猫と有名。
池信一(いけ しんいち)
東洋劇場では、石田英二、東八郎と共に、関西コメディー「番頭はんと丁稚どん」の大村崑、茶川一郎、芦屋小雁の三人の浅草版を狙った「丁稚トリオ」を組み、鳴らしていた。「銭形平次」で三ノ輪の万七の子分役。
石田英二(いしだ えいじ)
浅草から東宝の大劇場に進出して「雲の上団五郎一座ブロードウェイへ行く」のギャング役や「屋根の上のヴァイオリン弾き」の居酒屋の主人役で大好評。
泉和助(いずみ わすけ)
長く日劇ミュージック・ホールの専属コメディアンとして活躍した。
監督やコメディアンにギャクを提供するギャグマンとして重宝がられた和っちゃん先生。
井上真八(いのうえ しんぱち)
大きい体に大きな顔、鼻。
浅草ショウ劇場で同じ舞台に立った長門勇は「私が浅草で観た中で最高に味があった」と振り返る。
内海桂子(うつみ けいこ)
大正12年浅草生まれ。
三枡屋好子を名のり、現在の内海桂子となる。
今だに名漫才師として第一戦で活躍。
榎本健一(えのもと けんいち)
明治37年東京で生まれ。
浅草をこよなく愛し、孤独の中で生き抜いた「天才喜劇王」。「カジノ・フォーリー」の誕生により朝日新聞に川端康成の「浅草紅団」に連載が始まり、全国に知られる。エロ・グロ・ナンセンスの歌と踊りと芝居は大衆に受け入れられ人気が爆発した。明治37年~昭和45年、東京生まれ。喜劇俳優、愛称、エノケン。 「オレは村中いちばん~」に始まる「洒落男」の唄は全国中にヒットした。
大下真司(おおした しんじ)
三木のり平の明治座公演「恋や恋 浮かれ死神」で、死者を生き返らせてしまった掟破りの死神への三番を懲らしめる閻魔大王をさらりと演じて笑わせた。
大宮敏光(敏充)(おおみや としみつ)
周りの毛だけが残ったハゲ頭、ぐるっと口を囲むように描いたヒゲがトレードマーク。
デン助。トレードマークは後頭だけ残ったハゲ頭とギョロギョロした眼、鼻の下側と口の周りに黒々と塗った墨、メリヤスシャツに直に着用する背広の上衣、カーキ色のズボンにゴム裏の草履という扮装で親しまれていた。昭和30年代の後半から40年代にかけて、TBSが浅草松竹演芸場から「デン助劇場」を全国放映した。
起田志郎(おきた しろう)
由利徹や八波むと志と共に幕間コントを努める。
川公一(かわ こういち)
ヤパン・モカル(オペラ館)の三枚目として人気のあった小柄なコメディアン。 永井荷風の懐にスッと入り込んじゃうチャッこさ、いけ太さ、屈託の無さは見事というほかない。
川田義雄(晴久)(かわだ よしお(はるひさ))
虎造節をアレンジした川田節の歯切れの良さ。幼かった美空ひばりの才能をいち早く見ぬき、可愛がった。
岸田一夫(きしだ かずお)
真後ろにスッと倒れることができる倒れの名人。 初期の吉本新喜劇に脇で出ていたこともある。
木田三千雄(キダ みちお)
高見順の「如何なる星の下に」の“ドサ貫”は、この人がモデルと言われる。
木戸新太郎(きど しんたろう)
通称キドシン。タップダンサーからのしてきて、戦中戦後に座長を張る。
鯉口潤一(こいくち じゅんいち)
「レッド・スネーク、カモン!」でおなじみの東京コミックショーの全盛期、箱の中に入って三匹のへびを動かしていたのが、この人。 浅草での芸暦は古く、永井荷風が昭和十三年にオペラ館のために書き下ろしたオペラ「葛飾情話」の配役表に出てくる。
堺駿二(さかい しゅんじ)
堺正章の父。演技は軽妙無比。
山茶花究(さざんか きゅう)
カジノ・フォーリー文芸部員、ロッパ一座の役者を経て、第二次あきれたぼいうずのメンバーに。
サトウロクロー
ランバで歩くのが特徴。目の周りにスミを入れ、長く口ヒゲを垂らしている。
佐山俊二(さやま しゅんじ)
「山崎街道」(忠臣蔵)での与市兵衛役は、この人ならではの名人芸。
清水金一(しみず きんいち)
明治45年~昭和41年、東京生まれ。喜劇俳優。オペラ館を中心にシミキンの愛称で人気者になり、エノケン、ロッパの去った浅草で「浅草の喜劇王」と称せられる。 キミキンの愛称。いい加減で底の抜けた面白さが人気を集め、エノケン・ロッパが有楽町の東宝へ去った後の浅草喜劇を支える。
じん弘(じん ひろし)
棒の先にピンポン玉をつけたインチキ・ピンポンのギャグで売れる。 寅さんの映画にもよく出ていた。
杉兵助(すぎ へいすけ)
コント赤信号の師匠として「笑っていいとも!」のレギュラーも努めた。
鈴木桂介(すずき けいすけ)
師匠エノケン同様の小柄な体を活かしたスベリコロビ型コメディアン。 吉本に引き抜かれて「グラン・テッカール」の座長に。
須磨一露(すま いちろ)
とにかくコントの小道具を自分でコツコツ作るのが大好きな人。
関敬六(せき けいろく)
浅草フランス座時代からの盟友・渥美清が精巧緻密な芸で天下を取ったのに対し、不器用大雑把ながらエネルギッシュな人間的魅力に溢れた芸で人々に愛された。浅草税務署に3年間勤務。エノケン劇場文芸部よりフランス座に移り、昭和50年に関敬六劇団を結成。「浅草喜劇の灯を消すな」を合言葉に松竹演芸場から、浅草のおかみさん会が主催する常盤座の最終公演に一座を率いて出演し、舞台を飾った。
関時男(せき ときお)
小躰異相のアチャラカ派の雄。
曽我迺家五一郎(そがのやごいちろう)
新派から五九郎の一座へ入り、片腕的存在に。
座員たちに動物の名前をつけたりした。ビートたけしが弟子に変わった名を付ける元祖か?!
高屋朗(たかや ほがら)
田谷力三の弟子から、通称「ガマ口」と言われた大きな口と「チャンガラマンガラホイ」という何だかよくわからないフレーズをつけて歌ってしまう漫唱が売り。
武智豊子(たけち とよこ)
小柄で突飛な個性から「女エノケン」と呼ばれ、人気を博す。
谷幹一(たに かんいち)
新宿ムーラン・ルージュが落城して浅草入り。
シミキンの流れを汲んだ体技の面白さ、見事さがタニカンの武器。渥美清、関敬六らと浅草フランス座にストリップショーの合間のコメディアンとして出演していた。
谷村昌彦(たにむら まさひこ)
金語楼主演のテレビ・オメディ「おトラさん」の中の「こんつわー、山崎でござぁい」と毎度言う御用聞きの役でわっと売り出す。田舎から出稼ぎに来た労務者のような役をやらせたら天下一品。
茶川一郎(ちゃがわ いちろう)
キドシンの弟子。
浅草から大阪へ行って花登筐の傘下に入り、「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」で全国的な人気者に。
戸塚睦夫(とつか むつお)
浅草でも剣劇俳優として活躍した藤岡肇の息子に生まれ、時代物に独特の味のあったムッちゃん。
永田キング(ながた きんぐ)
グルーチョ・マルクスの扮装、メイク、動き、レトリックをそっくりそのまま真似て、「和製マルクス」を自称。
長門勇(ナガト イサム)
浅草ショウ劇場で修行をしていた頃は、岡山なまりを気にしていたが、後にそれがうけて一世風靡する。
ハーキー
ビートたけしに少し遅れて浅草フランス座に入ってきた。 ツービートのネタにいちばん影響を与えたやつとたけしが書いている。
橋達也(はし たつや)
深見千三郎から受け継いだ「監督」のコントの、映画監督に扮してのツッコミがすばらしい。転びの芸にかけては、現役コメディアンの中で、ポール牧、欽ちゃん劇場の佐藤あつしの三人がベスト3と言っていいだろう。
八波むと志(はっぱ むとし)
高音の声。鉈のような切れ味のツッコミは八波なれではのもの。
はな太郎(はなたろう)
浅草座では浅草陣太とのコンビが長く続いた。由利徹が座長の公演では欠かせない脇役として活躍した。
林葉三(はやし ようぞう)
勃興期にあったエノケンを妖気漂う個性で唯一喰うことのできた人。 いつもダービー帽をかぶり、ヒョロヒョロと長い手足を蛇のようにくねらせるスネーク・ダンスが18番。
伴淳三郎(ばんじゅんさぶろう)
明治41年~昭和56年、山形生まれ。喜劇俳優。「伴淳軽喜座」を主宰して浅草で活躍。1日3回興行で足かけ六年間、舞台を1度も休まなかった人気者。終生浅草を愛した。
坊屋三郎(ぼうや さぶろう)
1910年北海道夕張市生まれ。日本大学芸術学部卒業。
その後、浅草を一世風靡したお笑い4人組「あきれたぼういず」を結成。
51年に解散。映画界へ。映画産業が斜陽になり、お茶漬け屋に。
萩本欽一(はぎもと きんいち)
1941年東京生まれ。59年、浅草・東洋劇場に「役者見習い」として入社。
66年、坂上二郎と「コント55号」を結成。一躍人気者に。 松竹演芸場を拠点に「浅草新喜劇」の座長となる。多芸多才なコメディアン。
林家こぶ平(はやしや こぶへい)
昭和37年生まれ。祖父に7代目正蔵師匠、父に「どうもすいません、身体をだいじにしてください」という流行語で一世を風靡した三平師匠を持つ。親子3代、江戸の落語家。
ビートたけし(北野 武・きたの たけし)
昭和22年1月18日生まれ。東京出身。浅草フランス座へ飛び込み、きよしと「ツービート」を結成。昭和55年頃から漫才ブームに乗って売れっ子に。「赤信号 みんなで渡れば怖くない」などのパロディーが流行語に。
前田隣(まえだ りん)
芸名は「マイ・ダーリン」のモジリ。岸野猛、江口明と組んだナンセンス・トリオは早口のギャグで知られた。
益田喜頓(ますだ きいとん)
明治42年、北海道生まれ。昭和4年、浅草に進出。昭和12年「あきれたぼういず」に参加。ギターをかかえ、ウェスタンスタイル。本家バスター・キートン譲りのストーン・フェイスとヨーデルと空気の抜けたような台詞の喋り方で売る。あきれたぼういずでは大ボケ的なポジション。浅草に住む。あきれたぼーいずを結成。「アンジェラス」に行くと会えたという。 昭和52年に紫綬褒章、59年には勲四等旭日小綬賞。
美戸金二(みと きんじ)
通称ミトキン。三島けん(船越英二の兄)や七味十〇四らと相前後して浅草カジノ座のステージに立つ。
南利明(みなみ としあき)
脱線トリオ時分は一番存在が淡かったが、「でなもんや三度笠」の名古屋弁を使う鼠小僧次郎吉の役で立役の人気が出た。エノケンの弟子。
森川信(もりかわ しん)
松竹の映画スター。「男はつらいよ」シリーズのおいちゃん役を演じた。昭和6年の浅草観音劇場が初舞台。青年座結成して座長となった。
柳家金語楼(やなぎや きんごろう)
浅草での実績はエノケン・ロッパに及ばないが、戦後の映画やテレビで二人を上回る活躍ぶりを示し、「三大喜劇王」と並び称された。昭和3年、俳優の鑑札を申請し、浅草昭和座の曽我迺家五九郎一座に加入して「兵隊」で主演。昭和42年紫綬褒章を受章。
雪丘純(ゆきおか じゅん)
戦前の「笑の王国」の二枚目役者で、“日本のタイロン・パワー”。
横尾泥海男(よこお でかお)
小男の多い昭和初期の喜劇人の中では珍しい六尺豊かの大男。芝居は達者なほうでなく、デカイことが売り。
依田光(よた こう)
エノケンの一番弟子。与太公だから芸名がついたというズサンさがいい。
渡辺篤(わたなべ あつし)
日本初のトーキー映画「マダムと女房」に主演した松竹蒲田の大スター。
桜川ピン助(さくらがわ ぴんすけ)
梅寿会主宰。
桜川梅奴(さくらがわ)
浅草出身。本名:鈴木正文。
並木路子(なみき みちこ)
浅草生まれ。「リンゴの唄」が大流行。
こまどり姉妹(こまどり姉妹)
「浅草姉妹」「三味線姉妹」「浅草の鳩ポッポ」「ソーラン渡り鳥」「三味線渡り鳥」などのヒットをとばした。
美空ひばり(みそら ひばり)
昭和32年、浅草国際劇場出演中ファンから硫酸を浴びせられた。国際劇場の正月興行はもっぱらひばりで、昭和27年から14年間も続いた。
笠置シヅ子(かさぎ しづこ)
SKD出身。「東京ブギウギ」「ブギの女王」で一世風靡。
市丸姐
花柳界出身歌手の草分け。「花嫁東京」でデビュー。「天竜下れば」「ちゃっきり節」が大ヒット。
灰田勝彦(はいだ かつひこ)
ハワイ生まれ。「東京の屋根の下」「アルプスの牧場」がヒット。エノケンと親交が深かった。
遠藤実(えんどう みのる)
「浅草姉妹」「ソーラン渡り鳥」によってこまどり姉妹を世に出した作曲家。
淡谷のり子(あわや のりこ)
浅草の玉木座で舞台に立っていた。浅草電気館に出演後、玉木座に移り、エノケン劇団の“プチ・ダンサント”に参加した。
島田磐也(しまだ きんや)
西条八十の門に入り、サトウハチローと兄弟弟子。昭和30年「浅草物語」「浅草ラプソデー」に出演。
村田英雄(むらた ひでお)
昭和32年、浅草国際劇場の新作競演浪曲大会で、浪曲の伴奏にギターとアコーディオンを使って古賀政男に見出された。
藤原義江(ふじわら よしえ)
明治31年~昭和51年、山口生れ。浅草オペラ全盛期に「戸山英二郎」の名で出演。世紀のテノール歌手。大正7年浅草オペラの世界に入ってスターとなる。昭和9年「藤原歌劇団」を創立し、日本における本格オペラの推進者となる。
古賀政治(こが せいじ)
美空ひばりを“偉大な芸術家”と呼んだ人。
藤山一郎(ふじやま いちろう)
「ぴんちゃん」の愛称。元日本歌手協会の会長。 松竹座や浅草国際の舞台で、ダブルのスーツにそれとコンビ靴、アコーディオンを肩にさっそうと登場した。平成4年に国民栄誉賞を受けている。
宮田東峰(みやた とうほう)
「浅草山之宿(浅草五、六丁目)の生まれ」が口癖。
桂米丸(かつら よねまる)
昭和21年に5代目古今亭今輔の門に入った。月刊タウン誌「浅草」で連載対談。「浅草演芸ホール」のレギュラーの一人。 浅草芸能大賞、紫綬褒章を受ける。
三遊亭円楽(さんゆうてい えんらく)
浅草生まれ。昭和60年に私財を投じて三億円の寄席ビル「若竹」を建設したが、平成元年に弟子たちのふがいなさを理由に閉鎖した。
林家小さん(はやしや こさん)
浅草育ち。浅草が変わってしまったことを嘆く一人だ。 現落語協会会長。紫綬褒章、都民文化栄誉賞、浅草芸能大賞、日本放送演芸大賞功労賞、勲四等旭日小綬章などを受ける。
林家三平(はやしや さんぺい)
リズム落語といわれる。テンポの早い三平の落語は、テレビ時代にマッチし、彼のサービス精神も加わって人気は急上昇、落語界を活性化させた功績は大きい。
春風亭柳昇(しゅんぷうてい りゅうしょう)
浅草演芸ホールのレギュラー出演者。 落語芸術会副会長、ゆうもあくらぶ理事長、日本演芸家連合理事長を務める。
毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)
立川談志が名づけた。平成2年に浅草芸能大賞奨励賞を受けた。TBSラジオでキャスターをつとめる。
内海好江(うつみ よしえ)
浅草出身。
三波伸介(みなみ しんすけ)
浅香光代一座の一員。東けんじ、玉川良一とで「おとぼけガイズ」というトリオを組んでいた。てんぷくトリオが人気が出て、NHKの「減点パパ」で有名に。
松田春翠(まつだ しゅんすい)
最後の活動弁士といわれている。父親も浅草で活躍した無声映画の弁士。
松本源之助(まつもと げんのすけ)
永い歴史をもつ江戸里神楽を継承する唯一の神楽師で、土師流家元である。 小沢昭一、北村和夫、加藤武なども門下生。
悠玄亭玉介
浅草の酒屋の息子で、歌舞伎色の芸人。
伊東四朗(いとう しろう)
浅草の軽演劇に通っていた。昭和33年、石井均一座の「笑う仲間」に入座。37年にてんぷくトリオを結成して人気スターに。
大江美智子(おおえ みちこ)
大正8年、横浜生れ。 戦後の浅草花月劇場を拠点に女剣劇ブームをもたらす。鈴鳳剣と銘うって浅草松竹座で、日活の美男剣士役で鳴らした沢田清を迎えて公演した。
由利徹(ゆり とおる)
ムーランルージュに入った。昭和31年、南利明、八波むと志と脱線トリオを結成。
水の江滝子(みずのえ たきこ)
大正4年、北海道生まれ。昭和3年松竹楽劇部に第一期生として入り、25年間「男装の麗人」として男役ひと筋でターキーの愛称で親しまれる。29年に日活映画プロデューサーとなり、31年「太陽の季節」は経済的苦境に陥っていた日活にとって大ヒット。ターキーの発掘したスターは、石原裕次郎、フランキー堺、浅丘ルリ子など。昭和5年、浅草松竹座で松竹少女歌劇が「野球レビュー」と銘打った松竹座リーグ戦を青山圭男振付で上演した。日本のレビュー史上初めての男装の麗人第1号。
市川団十郎(いちかわ だんじゅうろう)
新之助から海老蔵を経て十二世を襲名した。 浅草は歌舞伎発祥の地。浅草寺境内に明治の名優九世団十郎の“暫”の銅像が建てられたのは、大正8年。昭和19年に戦争中の金属回収令のため拠出された。
市川猿之助(いちかわ えんのすけ)
歌舞伎改良の一方の旗手でもある。浅草に“猿之助横丁”がある。 八犬伝、オグリ、ニューオー、ヤマトタケルなどのスーパーカブキの企画、演出をして世界に羽ばたく歌舞伎を自負する。
三浦布美子(みうら ふみこ)
日舞、清元、鳴物、長唄の名取りとなった。浅草の現役売れっ子芸者だった。
梅沢富美男(うめざわ とみお)
浅草の木馬館の舞台を踏んで大きく開花した。 小椋桂の作曲による「夢芝居」の大ヒットによって全国的な顔に。
逗子とんぼ(ずし とんぼ)
「浅草の灯を消すな」と頑張っている。昭和30年代、テレビやラジオで活躍し、歌も芝居もできる器用な喜劇人。逗子とんぼ劇団を結成し、浅草で公演を行っている。
松鶴千代若と千代菊
浅草に住む。「ヘヘェーイ、シャバダバダ…」で名をあげた。
中村是好(ゼコやん)
昭和4年7月の第一次カジノフォーリー(座長格は石田守衛)以来のエノケンのバイプレーヤーだった。「のんきな大将」「ドンキー一座」が上演され、川端康成の「浅草紅団」の連載効果もあって大当たりとなった。
旭輝子(あさひ てるこ)
浅草生まれ。13歳で松竹歌劇団に入団。退団後、エノケン劇団に入団。神田正輝の母。
中村吉右衛門(なかむら きちえもん)
歌舞伎の初代吉右衛門を祖父にもつ。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵役が板について多くのファンがついた。
水島道太郎(みずしま みちたろう)
浅草生まれ。エノケン一座、笑の大国、ムーランルージュを転々として軽演劇の舞台に立った。 戦後は、フリーとなり、赤木圭一郎などと共演した日活アクション映画、やくざ映画でベテラン俳優として渋い演技を見せた。
山岡荘八(やまおか そうはち)
長谷川伸に師事。昭和13年に「約束」がサンデー毎日大衆文芸賞に当選して文筆業の道に入る。「浅草観音」という作品がある。
永六輔(えい ろくすけ)
生家は、浅草にある浄土真宗の最尊寺。NHKラジオ「日曜娯楽版」に投稿したりしながら、三木鶏郎の「冗談工房」に入り、ラジオ、テレビの構成、演出、脚本、司会、出演と戦後日本の放送の青春期を支えた。
中村八大(なかむら はちだい)
坂本九が唄った「上を向いて歩こう」は世界的なヒット曲となった。
小沢昭一(おざわ しょういち)
演劇人であり、映画の俳優であり、ハーモニカ奏者、カメラ、作家でもある。浅草が好きでよく遊び「浅草はいつも際物的に時代の“尖端”を走っているものと考える」といっている。紫綬褒章受賞。
サトウハチロー
エノケンとプペダンサントを28歳のとき起こした。名ばかりの文芸部長だった。
春日宏美
SKD後期のトップスター。
能里枝
ギター芸者。あきれたボーイズの川田義雄の弟子。三味線持つ手にギターと騒がれた。
石井漠(いしい ばく)
舞踊家。浅草オペラ座に進出するが、ズーズー弁で台詞のない舞踊家の道へ。
江戸家猫八(えどやねこはち)
大正十年、東京生まれ。お家芸は動物のものまね。いつもニコニコ笑顔を絶やさぬやさしい人。
大辻司郎(おおつじ しろう)
明治30年~昭和27年、東京生まれ。漫談家。 「漫談」という言葉は彼が創った。
大宮敏充(おおみや としみつ)
大正2年~昭和51年、浅草生まれ。喜劇俳優。 浅草オペラの田谷力三に憧れ、26歳で「大宮敏充一座」を結成。自作自演の人情喜劇「デン助シリーズ」を演じ続けて人気が出た。
清川虹子(きよかわ にじこ)
大正3年、千葉生まれ。ロシアバレエの名手石田守衛の誘いでカジノ・フォーリーに参加。映画で活躍するようになる。
サトウ・ハチロー
明治36年~昭和48年、東京生まれ。 詩人。童謡作家。浅草で暮していた。「リンゴの歌」でヒット。
沢田正二郎(さわだ しょうじろう)
明治25年~昭和4年、志賀生れ。俳優、新国劇の創立者。 大正11年秋~12年、浅草では主に公園劇場で上演していた。
沢村貞子(さわむら さだこ)
明治41年、浅草生まれ。 昭和9年映画界デビュー以来、名脇役ひとすじ。
高木徳子
明治24年~大正8年、東京生れ。日本初のミュージカル女王。
原信子(はら のぶこ)
明治26年~昭和54年、青森生まれ。大正7年「原信子歌劇団」を結成し、浅草にデビューする。
古川緑波(ふるかわろっぱ)
明治36年~昭和36年、東京生まれ。喜劇俳優。貴族院議員。「声帯模写」の創始者。
望月優子(もちづき ゆうこ)
大正6年~昭和52年、東京生まれ。映画女優。カジノ・フォーリーの一員。貧しく惨めな女を演じさせたら天下一品で、生活感がにじみでていた。
竹本綾之助(たけもと あやのすけ)
娘義太夫、明治の超アイドルスター。明治8年~昭和17年。
根岸浜吉(ねぎし はまきち)
浅草六区に最初の劇場「常磐座」を建て、六区興行街の黄金時代の土台をつくった興行士。文政10年~明治45年。
川上 音二郎
オッペケ節で売り出した新派の頭領川上音二郎。浅草花屋敷の創設者の長男。



オペラ

柳田貞一(やなぎだ ていいち)
大正浅草のオペラスター。
羽衣歌子
オペラ歌手(ソプラノ)
田谷力三(たや りきぞう)
明治32年、東京生まれ。 オペラ歌手(テノール)。美声と美貌であっという間に浅草オペラ最高の人気スターとなった。浅草国際劇場出演の常連。
北島三郎(きたじま さぶろう)
「浅草オペラ」というジャンルを作った人。
藤原釜足(ふじわら かまたり)
エノケンが去った「プペ・ダンサイト」で頭角を現し、間もなくPCL映画「ほろよひ人生」「只野凡児」でスターに。
松島詩子(まつした うたこ)
浅草オペラに関わる。芸名は山田耕作がつけたという。
坂野比呂志(さかの ひろし)
金龍館のオペラのコーラスボーイを経てレビュー一座を結成。ドサ回りをしたが、失敗し、再び浅草へ戻り、田谷力三のもとへ。エノケンの舞台も踏んだ。
杉狂児
南部邦彦の弟子になって浅草オペラに出演。 昭和10年、日本初の音楽舞踊映画「うら街の交響楽」に川畑文子特別出演に出ている。



作家 博士
下町は、庶民の町。
民衆のエネルギーは下町で育ち、
多くの作品として生まれ
今なお多くの人に愛されてます。

浅草は数々の文人にも愛され、その作品にも登場してきます。
ある時は場所が、ある時はお店が、ある時はお祭りが、食べ物が・・・。

時は変われど変わらぬ浅草の魅力。
浅草のパワーと情緒が作家と作品に息吹を与えてきました。
浅草にちなんだ文人や作品を集めてみました。
これをきっかけに文学という時間を超えた浅草散策を楽しんでみてください。

井上ひさし(いのうえ ひさし)
作家、劇作家。
1934年山形生まれ。上智大学文学部卒業。劇作家、小説家。
浅草フランス座文芸部を経て、放送作家に。
NHKテレビの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」などヒット作を生み出す。
69年、浅草体験をもとに書いた戯曲「日本人のへそ」で注目を集める。 浅草のストリップ劇場「フランス座」の台本やコント、脚本などを手がける。フランス座野球部のバッティング投手だった。
加太こうじ
14歳で「黄金バット」を描いた。浅草生まれ。下町物を手がける作家、評論家として彼の右に出るものがいない。
和田芳恵(わだ よしえ)
新潮社の編集部を経て、作家に転じた。一葉の研究でも知られ「一葉の日記」で日本芸術院賞を得た。
淀橋太郎(よどばし たろう)
森川信やシミキンの台本を書きまくり、浅草から軽演劇の灯が消えてからは、美空ひばりや北島三郎の芝居の台本を書いて、才能を高く買われていた。
久保田万太郎(くぼた まんたろう)
浅草生まれの小説家、劇作家、演出家。明治22年~昭和38年。別冊文芸春秋42号から連載した「浅草広小路序説」「瓦七萬七千枚」「カツテキハヤシ」を補筆訂正し、角川書店から「浅草風土記」として文庫で発行された。「十二階」「吉原付近」「雷門以北」など、浅草周辺下町生活を独特の情感で描いた。 浅草神社の境内に「久保田万太郎句碑」が建てられている。
阿木翁助(あぎ おうすけ)
浅草六区の花月劇場(浅草新喜劇場)でムーランの台本を書く。代表作は「女中あい史」。
川端康成(かわばた やすなり)
従兄弟の家が浅草にあり下宿していた。朝日新聞に「浅草紅団」の連載を始める。タウン誌「浅草」の題字は彼が筆を執ったもの。昭和の初期「浅草 紅団」で浅草ブームを巻き起こす。明治32年~昭和47年。 27歳の時に「伊豆の踊り子」で新進作家としての地位確立。戦前の川端康成は浅草桜木町に住み、浅草を舞台にした作品を精力的に書いた。「浅草日記」「浅草の姉妹」「浅草の九官鳥」「浅草祭」。
菊田一夫(きくた かずお)
明治41年~昭和48年、横浜生れ。 劇作家、演出家、小説家。サトウ・ハチローに師事し、昭和の初めに浅草軽演劇作者となって、ズバ抜けて面白い、気のきいたギャグをふんだんに盛り込んだアチャラカ喜劇の数々を生み出した。「君の名は」の大ヒットで全国中に知れ渡った。
高見順(たかみ じゅん)
明治40年~昭和40年、福井生まれ。父が永井荷風の弟。昭和の小説家。詩人。浅草に住み浅草を舞台とした「如何なる星の下に」など発表。浅草を背景にしたものは「東橋新誌」「胸より胸に」「都が夜がある如く」など。昭和30年には編者になって「浅草」という文化的手引書を刊行した。 日本近代文学館創設に尽力した。
石川啄木(いしかわ たくぼく)
明治後期の歌人・詩人・社会思想家。明治19~45年。浅草・等光寺で葬儀を行った。
歌を刻んだ碑が建っている。
「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り
まぎれ出て来し さびしき心
浅草の凌雲閣の いただきに
腕組みし日の 長き日記かな」
本名:石川一(はじめ)。20歳の時、「あこがれ」が刊行されて注目される。気晴らしに出たのが浅草。
川口松太郎(かわぐち まつたろう)
浅草生まれの小説家、劇作家。明治32年~昭和60年。「浅草女房」は浅草を舞台にした作品。「愛染かつら」は有名である。息子の川口浩は俳優。
永井荷風(ながい かふう)
明治・大正・昭和の小説家。1879~1959
鋭い文明批評と洗練された趣味的な情緒によって、反時代的な独特の文化的世界を築き上げた。
本名:壮吉。
東京生まれ。
東京外国語学校清語科中退。
良家の家風に反抗し、さまざまな生き方を模索したが、明治30年代の半ば、ゾライズムの作品を書いて認められた。1903年から5年間、アメリカ・フランス生活を体験して帰国し、「あめりか物語」(08)、「ふらんす物語」(09)その他で新しい文学の趣味を鼓吹し、耽美派の中心となって活躍。明治末から以前よりの江戸趣味や花柳情緒への傾斜が顕著になってきたが、大正期に入って。「腕くらべ」(18)、「おかめ笹」(20)などで、一層、その傾向は深められた。傍観者的姿勢は年とともに濃厚になっていったが、時勢への好奇心は衰えることなく、関東大震災後、いよいよ急変して行く社会の様相に関心を向け、昭和期の「つゆのあとさき」(31)、「墨東綺だん」(37)などには、明治以来の日本近代文学のすぐれた達成が見出される。太平洋戦争下、妥協しないで文学の純粋性を守ったが、ひそかに創作を続け、戦後の文壇に迎えられた。17年から死に至るまで続けられた。「断腸亭日乗」は、日記文学の白眉として評価されている。 浅草の町と六区のストリップ小屋の踊り子を愛する。なじみの喫茶店「峠」やレストラン「アリゾナ」に顔を出した。
浜本 浩
浅草を主題にした多くの作品を残した作家。明治二十四年~昭和三十四年「浅草の灯」が映画化され、大ヒットする。
樋口 一葉(ひぐち いちよう)
1872~1896
明治の代表的な女流小説家・歌人。
本名:なつ。
東京生まれ。
1883年暮下谷池ノ端の私立青海学校小学高等科第四級を首席で終えたのち中退、86年8月、小石川安藤坂にあった中島歌子の歌塾萩の舎へ弟子入りして和歌・古典・書道を学んだ。父則義の死後家督を相続、90年9月、母たき、妹くにをかかえ、本郷菊坂町に住み、針仕事・洗い張りなどで暮しをたてた。翌年4月、朝日新聞小説記者半井桃水について小説の手ほどきを受けた。萩の舎の姉弟子田辺花圃が小説「藪の鶯」で文壇に出たことに刺激されたためである。花圃の世話で92年暮「都の花」に連載した「うもれ木」が出世作になり、北村透谷・島崎藤村らの「文学界」の奇稿者になった。93年7月、生活苦を打開するため吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町に荒物屋を始めたが、翌年5月本郷丸山福山町に移り、12月「文学界」に発表した「大つごもり」で新境地を開いた。「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」と名作を発表、惜しまれつつ若死した。 明治前期の女流作家。明治五年~明治二十九年。生活苦とたたかいながら小説を執筆。代表作は吉原周辺を描写した「たけくらべ」。
池波 正太郎(いけなみ しょうたろう)
大正12年、浅草生まれ。1923~1990
1935年西町小学校卒業。現物取引所田崎商店、株式仲買店松島商店に入る。1942年芝浦の萱場製作所に入所。1943年「婦人画報」の<朗読文学>欄に小説を投稿。1944年横須賀海兵団に入団。1946年東京都の職員に。読売新聞の演劇文化賞に戯曲「雪晴れ」が第4位入選、上演される。1949年長谷川伸に師事。 1951年「不合理ゆえに吾信ず」を月曜書房より刊行。1952年「鈍牛」が新国劇により処女上演される。1954年小説を書き始める。「厨房(キッチン)にて」を「大衆文芸」に発表。1960年「錯乱」を「オール讀賣」に発表、第43回直木賞を受賞。1967年「鬼平犯科帳」の第一作となる「浅草・御河岸」を「オール讀物」に発表。 1969年「鬼平犯科帳」がテレビで放送される。1972年「必殺仕事人」放送。1977年、第11回吉川英治文学賞受賞。1978年、戯曲「市松小僧の女」で大谷竹次郎賞受賞。1988年、第36回菊池寛賞受賞。1990年永眠。 膨大な作品群の中には、鬼平犯科帳シリーズ、剣客商売シリーズ、必殺仕掛人シリーズなど人気シリーズがあり、映画や本や食べ物のエッセイ集にもファンが多い。江戸の下町を背景にした作品は、とりわけ面白い。
江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)
1894~1965
大正・昭和の小説家。
日本の推理小説の開拓者であり、また育成の功労者。
本名:平井太郎
三重県生まれ。
早稲田大学政経学部卒。
在学中から海外の推理小説を耽読、卒業後は職業を十数回も変え、1923年「二銭銅貨」を発表、わが国にも創作推理小説発展の可能性を示して注目された。「心理試験」(25)、「屋根裏の散歩者」(25)。「陰獣」(28)で、トリック中心の論理的分野を確立し、「赤い部屋」(25)、「パノラマ島奇たん」(26~7)、「押絵と旅する男」(29)で、恐怖と神秘幻想の世界を探った。また「蜘蛛男」(29~30)、「黄金仮面」(30~31)以下の通俗長編は、サスペンスに富んで熱狂的歓迎を受けた。第二次世界大戦後はことに研究評論に力を注ぎ、探偵作家クラブを設立し、江戸川乱歩賞の設定、雑誌「宝石」の編集を通じて、後進を育成した。
探偵作家クラブ初代会長。紫綬褒章受賞(61)。



その他

大谷米太郎(おおたに よねたろう)
戦災で焼けた浅草寺仁王門の再建に総工事約1億6000万円を寄付した。富山の農村から上京、いろんな仕事をしながら実業界で富を築いた。ROXビルも建設。地元から親しまれる。
服部良一(はっとり りょういち)
戦前戦後を通じて数々のヒット曲を世に出した。浅草松竹座、浅草国際の舞台で聞かれないことはなかった。
土岐善磨
浅草生まれ。同級に若山牧水、北原白秋がいた。「わがために一基の碑をも建つるなかれ 歌は集中にあり、人は地にあり」と詠んだ。浅草小学校の校歌を作詞。
岩田専太郎(いわた)
浅草生まれ。挿絵画家。
崎本はる(さきもと はる)
お好み焼「染太郎」の女将。明治29年~昭和59年。“染太郎”の女主人。名物おばちゃん。この屋号は「如何なる星の下に」の作品で知られる高見順が付けたといわれる。林屋染太郎という芸人と結婚して浅草で世帯を持つ。高見順の小説の舞台となる。
大谷竹次郎(おおたに たけじろう)
浅草六区興行街の恩人。松竹(株)初代社長。
伊庭孝(いばたかし)
明治20年~昭和12年、東京生まれ。音楽評論家。ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、三味線まど指で操る楽器なら何でもこなし、また英仏独伊露語の他梵語まで精通した語学の天才だった。
サトウサブロー
とても洒落たコントをやる面白い人だった、と喜劇人たちに評判だった。
ジプシー・ローズ
昭和10年~昭和42年、福岡生まれ。昭和25年浅草常盤座のショーに泉都ルイズの代役で出演しプロデューサーの目にとまり、日本一のストリッパーになる。
二村定一(ふたむらていいち)
明治32年~昭和23年、東京生まれ。 オペラの世界に入り、大正9年浅草金竜館でデビューする。昭和初期には流行歌手の草分けとなり、「君恋し」がヒットする。カジノ・フォーリーにも参加。
佐々紅華(ささこうか)
明治19年~昭和36年、東京生まれ。作曲家。大正6年「東京歌劇座」を結成、浅草の日本館で旗揚げ公演をする。浅草オペラ隆盛に重要な役割を演じたが、昭和に入ってからは作曲家として有名。
キヨシ
「浮世人」を自称した浅草の名物乞食。六区興行街の劇場関係者や芸人で、キヨシを知らなければもぐりと言われた。
小林清親(こばやし きよちか)
浅草が生んだ近代版画の創始者、最後の浮世絵師。弘化4年~大正4年。東京名所版画シリーズで「浅草今戸の月」「浅草年の市」「金龍山浅草寺図」など浅草の四季を題材にした秀作が多い。竜福寺には墓とともに「清親画伯之碑」がある。
今東光(こんとうこう)
小説家。天台宗大僧正。明治31年~昭和52年。二科展に落選したのを機に文学にのめり込む。27歳の時「婦人公論」に「痩せた花嫁」発表。32歳で出家。
三条実美(さんじょう さねとみ)
明治新政府の元勲、太政大臣。天保8年~明治24年。明治天皇は、岩倉具視には心許さなかったが、実美には許したという。
添田唖然坊(そえだ あぜんぼう)
壮士演歌師、詩人、社会運動家。明治5年~昭和19年。本名:添田平吉。 禁止された政治演説を歌にたくし浅草で名を売る。日本初のシンガーソングライター。
高村光雲(たかむら こううん)
浅草生まれの彫刻家。嘉永5年~昭和9年。上野の西郷隆盛銅像の原型製作者。
イザベラ・L・バード
明治初期、とりわけ浅草を愛したイギリスの女流作家。1831~1904(明治37年)
ウイリアム・K・バルトン
浅草のシンボル、十二階凌雲閣の基本設計者。1856~1899(明治32年)工学・衛生設備の専門家。
飯村 茂(いいむら しげる)
洋服チェーン店「ダイム」社長。浅草生まれの浅草育ち。「見る街、買う街、食べる街」の振興に尽力しつづけた。伴淳三郎さんが発案し、実行委員会を結成、56年8月29日に第1回浅草サンバ・カーニバルを成功させた。
井上 好子(いのうえ よしこ)
生れも育ちも浅草。「こまつ座」の事務所を浅草橋に構えている。コピーライターをしている時に井上ひさしと知り合い、7日目に電撃結婚した。評論家としてマスコミにひんぱんに登場する。
内山 榮一(うちやま えいいち)
「下町ライブ’85」、サンバ・カーニバル等さまざまなイベント主催あるいは後援し、下町再興に情熱を注ぐ“お祭り区長”。
大谷 米一(おおたに よねいち)
浅草六区にT・O・C「ROXビル」を建設。「ホテル・ニューオータニ」社長。
大森亮潮(おおもり りょうちょう)
浅草の人たちは「先生」と呼ぶ。浅草寺の支院医王院の住職。浅草寺病院の医師。
葛谷輝明(かつや てるあき)
酒類販売「ミノヤ」代表取締役。浅草神社神事「びんざさら会」会長。浅草生まれではないが、根をおろし、お祭りの采配を振るう。浅草観光連盟副会長。
川上桂司(かわかみ けいじ)
民芸てぬぐい「ふじ屋」主人。「浅草の会」世話役。
小生夢坊
樋口一葉記念館や下町博物館(現下町資料館)の建設に走り回り、また民俗芸能を守る会の副会長として若手芸能家の育成に尽力。弁天山に唖蝉坊碑を建設したり、五九郎碑「永生の壁」を浅草寺境内奥山に建設したりした。
興津要
タレント学者じゃないが、落語などの庶民芸能の研究家として身近に感じる。タウン紙「浅草」にエッセイを連載している。
根岸吉之助(ねぎし よしのすけ)
根岸興行部の三代目。初代は浅草六区の興行街を興した人。
村上元三(むらかみ)
昭和15年「上総風土記」で第12回直木賞を受賞した。若い頃、浅草に住んでいた関係で、「浅草を語る会」に招いて、伝法院の仏間で江戸の話を聞いたことがある。
網野宥俊
浅草寺金蔵院の住職になったのは大正10年5月。喜多川周之と「浅草寺文化」を共同編集し、大著「浅草寺史談抄」は評価が高い。
吉村平吉(よしむら へいきち)
浅草軽演劇団に所属。風俗ライターとして活躍。
秋山安三郎(あきやま やすたろう)
浅草生まれ。市役所史員、郵便局員、銀行員を経て、二六新報、報知新聞から朝日新聞記者となり、演劇担当から劇評家として名を成した。



歴史

浅野長晟(あさのながあきら)
浅草寺に石橋を残した人。浅野家は豊臣秀吉の正室ねねの実家。 浅草寺本堂の西側に、針供養会で知られる淡島堂があり、その外側を半円形に小さな池が横たわっている。ここに、文化財保護のため鉄柵で通行止めになっている古びた石橋がある。東京最古の石橋。日光東照宮の神橋になぞらえて、ミニ版として寄進した。
在平業平(ありわらのなりひら)
希代のプレイボーイだった。 遠い京の都をしのび、「名にしおはば いざ言問わん 都鳥 我思う人は ありやなしやと」と涙ながらに読んだ。これより、浅草と向島一帯に、言問橋、業平橋、業平橋駅(東武鉄道)、業平塚(吾妻橋3-6)、業平だんご(吾妻橋3-1、秋茂登)、言問だんご(向島5-5、言問だんご)などが出現した。
大口屋暁雨(おおぐちやぎょうう)
花川戸助六のモデルとされる蔵前の札差。 「札差」とは、代行業者が得意先の旗本の名札を米俵に差して保管していた。 金払いがよく、弱気を助け強きをくじく暁雨は下町の人気を一身に集め、早速、歌舞伎の主人公助六に脚色されて、大江戸の英雄にまつり上げられた。
太田道灌(おおたどうかん)
室町時代中期の武将。浅草・祝言寺を建立。 学問や歌道を深く修め、文武両道の名将と仰がれるに至る。 門前に「太田道灌公顕彰碑」が建っている。
勝麟太郎(かつりんたろう)
幕臣、江戸幕府の海軍創設者。明治初期の政治家。 剣禅一致の境に達した。
葛飾北斎(かつしかほくさい)
江戸後期の浮世絵師。「富獄三十六景」「隅田川両岸一覧」などで世界中に知られ、日本風景版画の創始者。墨田川周辺を93回引越し、浅草で生涯を終える。
亀田鵬斎(かめだほうさい)
江戸時代後期の儒者。書家、詩人。大酒豪で有名。史跡的なものとしては、千束稲荷神社の古びた鳥居に書が刻まれてあり、石浜神社に「隅田川渡津詩碑」が、向島の木母寺の梅若堂前に「隅田川桜花之碑」があり、長命寺、百花園などにも遺跡がある。
柄井川柳(からいせんりゅう)
浅草新堀端の名主。前句付けの点者(判定者、師匠)。 「前句付け」とは、五七五七七の歌の下の句七七に対して、あとから上の句をつけて1つの歌にすることをいう。 「川柳」はここからきている。
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
江戸時代末期から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。浅草に住んでいた。 今なお演じられている「三人吉三」「村井長庵」「切られお富」「弁天小僧」「慶安太平記」「河内山」などの名作で猿若町全盛時代を出現させ、歌舞伎の集大成者と称えられる。
紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
江戸時代中期の材木問屋、紀文と呼ばれた。 木材を買い占める、のち思惑が的中。火事が続出、大金持ちに。 持ちつ持たれつの関係にあった側用人、勘定奉行が失脚すると浅草寺の裏に隠棲。
小堀遠州(こぼりえんしゅう)
江戸時代初期の造園家。小堀流茶道・華道の祖。伝法院庭園、蓬莱園を造園した。 70余坪の広さをもつ伝法院庭園は、自然の風光をとり入れた廻遊式の、一歩ごとに景観が変化するように設計された名庭。
酒井抱一(さかいほういち)
浅草に住み、狂歌師、俳人、画家として一流になる。 酒井家は、4代将軍家綱のときに大老職をつとめた名門だが、屋敷には寄りつかず、下町の貧乏画家や狂歌師らと自由に遊び暮していた。
新門辰五郎(しんもんたつごろう)
江戸時代末期から明治にかけての侠客。火消しの頭として浅草に住み、晩年は将軍慶喜と親戚づきあいをした。町火消の「を組」に父が入れる。その後、実力で頭になり、浅草・下谷一帯を支配する十番組頭取に推される。慶喜は、辰五郎を「親爺、親爺」と呼んで信頼したという。慶応の警衛にあたる。
禅海上人(ぜんかいしょうにん)
禅海(善海)とは、菊地寛の名作「恩讐の彼方に」で美談の主として知られる了海のモデル。浅草に住んでいたという。
高尾太夫(たかおだゆう)
隅田川の船上で非業の死をとげた。絶世の美女、遊女。 異説もあり、相思相愛だという説も。
遠山金四郎(とおやまきんしろう)
町奉行。芝居街を浅草に誘致。いれずみ判官。 町人に化けて市井をうろつくときには、遊び人の金さん。片はだをぬげば、どんな悪党でも息をのむ見事な桜吹雪の刺青。異説では、刺青はなかったという説も。
徳川家康(とくがわいえやす)
江戸幕府を開設。初代将軍。浅草寺を徳川家祈願所とする。 徳川家も三代将軍までは浅草寺を非常に大切にしている。
徳川秀忠(とくがわひでただ)
二代将軍。浅草寺境内に東照宮を建てる。日光東照宮が建てられたとき、江戸在府の大名や旗本、庶民が身近なところで神君を拝めるようにと、秀忠は「浅草東照宮」を浅草寺境内に建立させた。
徳川家光(とくがわいえみつ)
三代将軍。浅草神社を再建。寛草8年4月の火災で焼失。再建を命じた。 いまでは重要文化財。
八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)
奥州の出陣の途中、白鳥神社を鳥越神社と改称させた平安時代後期の武将。 「鳥が飛んだ跡こそ、浅瀬」から白鳥を鳥越とあやかろう、と改称。
幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)
浅草・花川戸で人入れ稼業を営んだ町奴の頭領。
檜前浜成(ひのくまはまなり)、竹成(たけなり)、土師中知(はじのなかとも)
三者だから三社さま。三社祭りで有名な浅草神社の祭神。ある日、小舟を出していると小さな光る像を発見。家に持ち帰り拝礼し、祀った。 浅草寺の始まり。
平賀源内(ひらがげんない)
江戸時代のマルチ文化人。浅草寺境内の奇人釈師・志道軒に入門。日本初の物産会(博覧会)を江戸の湯島で開催。
深井志道軒(ふかいしどうけん)
江戸時代中期の、僧侶くずれの奇人講釈師。
堀の小万(ほりのこまん)
田沼時代の、浅草山谷堀の鉄火芸者。
松井源水(まついげんすい)
江戸時代の余興付き売薬者。浅草寺境内で人気に。 浅草・田原町に源水横町という路地がある。
源頼朝(みなもとのよりとも)
浅草で再起の大軍を結集、浅草寺に戦勝を祈願して平氏を滅ぼし、鎌倉に幕府を創設した。
宮本武蔵(みやもとむさし)
島原の乱が起きたとき、吉原の遊女雲井と過ごしていた。大勢の見送られ、出陣した。

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