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人情の町こだわりの町、日本のふるさと浅草。
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浅草が浅草らしくあるのも陽になり陰になりしながら浅草を支える人々がいればこそ。
そんな浅草人を「浅草い〜とこ」ではシリーズで紹介していきます。
| 第三弾 | ||||||||||||
| 「一直」(日本料理)6代目江原 仁さん | ||||||||||||
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江戸時代から続く老舗の日本料理店「一直(いちなお)」の6代目主人。 昭和9年生まれ、69歳。料理人の勉強会として父の代に発足した全国組織「芽ばえ会」会長、全国料理環境衛生同業組合の副会長などを歴任し、日本料理の発展に尽くしてきた。現在は浅草の組合理事として、また、三業会館代表取締役として、広く地域のために貢献している。 |
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| 江戸時代にさかのぼる「一直」の歴史 | ||||||||||||
| ――現代にいたるまでの、「一直」の歴史を教えてください。 | ||||||||||||
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私の祖父に聞いた話なんですが、初代は鳥屋の直次郎といいまして、埼玉県の鴻巣で茶店と生け花の師匠をやっていたそうです。 号を「鳥松齋貞一直(ちょうしょうさいていいっちょく)」といいました。 2代目からは苗字を許されて、江原姓を名乗るようになりました。 早逝した2代目江原惣八と3代目の惣八の2代は、明治初期まで鴻巣〜熊谷のルートで、いわゆる「駅馬車」を経営していました。しかし、熊谷〜上野間に鉄道が開通されると、「駅馬車」の需要はなくなり廃業します。それで、3代目惣八は明治11年、当時の東京の中心地、浅草に出てきたのです。 移った先は、当時は観音様の周囲は桜の名所であり、「奥山」と呼ばれていたところ。花やしきの隣、今は更地になっている旧馬券場跡地の辺りです。新門辰五郎の屋敷だったところを、老舗料亭の「平清」が店舗として使っていました。それを、3代目が買い取り「奥山の一直」として料理屋を始めたのです。当時の広告は河竹新七という歌舞伎の台本作者に書いてもらっていたようですが、七五調でおもしろいですよ。「四季折々の花やしきも手近にありて看板の 桜目につく一直も…」と続きます。屋号の「一直」は、初代の 生け花の号から取ったものです。ですから、当時は「いちなお」ではなく「いっちょく」と読んでいました。 |
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| 桜にちなんで、看板料理は「桜豆腐」でした。新鮮な芝エビの皮を剥き、刃打ちしたものを桜の花びらに見立てて豆腐にのせ、さらに葛あんをかけたあんかけ豆腐です。これが評判になり、観音様にお参りに来る人たちが、桜豆腐とお酒でちょっと一服、というのが 粋だったようですね。 | ||||||||||||
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| 激動の時代を生きた、4代目の祖父 | ||||||||||||
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――3代目が盛り上げた店を4代目が引き継いだのですね。 4代目は養子で江原松三郎といい、これが私の祖父です。祖父は大正から昭和にかけて店を盛り上げました。時代柄、軍人や財界人が主な顧客となり、庶民的な店だった「一直」も高級料亭へと変遷していきます。関東大震災、その後の大火で店舗は2度焼失していますが、その都度建て直し、隆盛を極めたのです。 |
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浅草寺を中心とする浅草の花柳界は、戦前は芸者衆だけで1000人を超えるほど栄えていました。料亭も100軒近くあったと思います。当時は料亭、置屋、芸妓の三者が「見番」に集まって一つの三業組合を作っていました。 その中で「一直」は一日350〜400人の客が入り、料理人が40人、女中さんと合わせて従業員が100人もいた浅草でも一番大きな料理屋の一つで、祖父は三業組合の仕切りもやっていました。 |
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ところが太平洋戦争になると、観音様を守るために「間引き疎開」が行われ、商売をやめることになり、「一直」の建物の一部は三鷹にあった中島飛行場の迎賓館に移築されることになりました。 その後、戦争はいよいよ激化しましたので、祖父は湯河原に疎開します。その間、浅草は空襲で店があったところも、その周辺も、そして観音様も焼け野原になっていました。 戦後しばらくたっても祖父は湯河原から離れなかったのですが、「浅草の花柳界を復興させるために、出てきてください」と、先に戻って営業を再開した金泉さん、小柳さん、豊年さんなどの待合の皆さんが声をかけてくださり、昭和26年、ふたたび浅草に戻り、現在の地で営業を再開したのです。 しかし、祖父は浅草に戻るにあたって、「これからは、自分の納得できる仕事をしたい。それには30〜40人くらいの客でじゅうぶんだ」と、規模を縮小したのです。 |
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| 「関西風」を取り入れた5代目・父 | ||||||||||||
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――6代目の江原さんは昭和9年生まれとのこと。激動の中で、4代目のおじい様と5代目のお父様の背中を見て育ったのでしょうか。
はい。話は少し戻りますが、関東大震災後、銀座に関西料理が進出してきてカウンター料理を始めました。東京の料理屋は座敷料理で台所を見せないのが普通でしたが、関西はカウンター越しに料理している姿をお客に見せたのです。これは一大センセーションを巻き起こし、東京の料理屋のスタイルを変えていきました。 |
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東京湾が開発されたりして、江戸時代から続いた東京の江戸前料理が下火になる中で、関西料理は四季の素材が豊かで、まだまだ勢いがありました。父はそういう、関西のいいところを学んできて、「関西風」を「一直」の料理に取り入れたのです。 余談ですけれど、東京の料理は味が辛いと言われていますね。それは地方の人の印象に残った料理が、江戸時代、参勤交代の大名が調達した「お重箱」の料理だったからではないでしょうか。長い道中で食べる保存食なので、何でも甘辛くしてあったようですね。 それから蕎麦。蕎麦つゆも味が薄いとダメでしょ。これも「東京の味」として、伝わったんだと思います。 ――お父様は「一直」の料理を改革したと。 そうです。ですが、父は1965年、胸を患って57歳の若さで他界してしまいました。戦争で料理屋ができなかった時は町工場で強制労働もさせられましたから、無理がたたったのでしょう。 |
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| 父を引き継いだ6代目の心意気 | ||||||||||||
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――お父様の後を6代目として継がれるにあたって、仁さんはどのような修行をされたのですか?
高校を卒業した私は、父と同じ「つる家」の大阪本店に勉強に行きました。そこで3年修行して東京に帰ってくると、「一直」の料理がなんだかやぼったく見えてきたんですよね。よく父に、「こういうふうにしたほうがいい」とか「何でこういうふうにするんだろう」と疑問を投げかけたものです。 ――6代続いた「一直」。自分の代ではこれをやった、あるいは今後、こうしていきたいということがありましたら教えてください。
![]() 三浦文子(左) 山本真由美(右)
父の代を見ても、私の若い頃を見ても、日本料理屋はいつの時代も似たような悩みを抱えています。親代々の残してきたものを守るのは得意ですが、攻めるのが苦手で苦労する。それは今の若い人たちも同じです。しかしながら、これだけの長い不景気は私にも経 験がありません。昔の花柳界は文化情報の発信地でもあり大いににぎわいましたが、反省すべくは一般市民の認知を受けてなかったこと、敷居を高くしてしまったことでしょう。この時代にどう日本料理屋が生き残って、発展していくのか。若い人たちと一緒に、考えていければと思っています。 |
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