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今年も三社祭の季節がやって参りました。
浅草い〜とこでは、当日の撮影おっかけさせていただける町会を募集しています!

今までの三社祭特集はこちら!
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当日のスケジュール!
三社祭、ここが見どころ!
三社祭 聖天町会レポート!
◆聖天町会 会合リポート!
◆聖天町会長に聞きました!
◆特派員当日レポート!

今回は聖天町会さまに撮影・取材の
ご協力をいただきました。
本当にありがとうございました。


当日のスケジュール!

5月19日(木曜日) 午後7時 本社神輿神霊入れの儀
5月20日(金曜日) 午後1時 大行列 出発 東廻り(雨天中止)
編成
お囃子屋台・金棒・鳶頭木遣り・総代・各町役員・びんざさら舞・芸妓連の手古舞・組おどり・白鷺の舞・屋台
順路
柳通り〜馬道通り〜雷門通り〜雷門〜仲見世〜社殿
午後 2時20分 びんざさら舞奉納 浅草神社拝殿
午後 3時 びんざさら舞奉納 浅草神社神楽殿拝殿(雨天中止)
午後 3時30分 各町会神輿神霊入れの義
5月21日(土曜日) 午前10時 例大祭式典斎行 『各町三名』
午後12時30分 氏子各町神輿連合渡御(観音本堂裏広場に勢揃い)
午後3時 奉納舞踊 神楽殿
5月22日(日曜日) 午前 6時 本社御輿宮出し 氏子各町渡御
日没 本社神輿宮入り
宮入り後 本社神輿神霊返しの儀


三社祭 ここが見どころ!

三社祭は浅草神社の例祭。期間中は氏子衆と呼ばれる地域の信者たちにより、さまざまな神事が行われます。見物の際には、神様を大切にもてなそうとしている地域の人たちの真摯な思いを尊重していただければと思います。

5月19日(木曜日)
午後7時
本社神輿神霊入れの儀
浅草神社は、浅草寺創建わかりの人物である土師真中知命(はじのまつちのみこと)、桧前浜成(ひのくまのはまなりのみこと)・竹成(たけなりのみこと)の三人を三柱の神様としてお祭りしていますが、三社祭の期間には神様は神輿に乗って町中に出て氏子衆に神徳をお広めになります。そのために三基の神輿に神様をお遷しする儀式が「本社神輿入れの儀」です。

5月20日(金曜日)
午後1時
大行列
お囃子屋台、鳶頭木遣り、びんざさら舞などの行列が浅草の町を練り歩き、祭りの気分を盛り上げます。
午後2時20分
びんざさら舞奉納(浅草神社拝殿)
国の無形文化財にも指定されている「びんざさら舞」は、五穀豊穣。商売繁盛、子孫繁栄、悪霊退散を祈願して行われる田楽の一種です。きらびやかな衣装をまとった氏子による舞い方が、長さ15cm、厚さ0.6cmのヒノキの板を108枚重ねた「びんざさら」という楽器を鳴らしながら踊ります。「びんざさら」は、板と板が触れ合ってさまざまな音が出ます。アコーディオンのように開いたり閉じたりすることで、ゆったりとしたリズムを刻みます。 浅草神社拝殿で午後2時20分よりびんざさら舞を奉納。午後3時からは、同神楽殿でも舞が奉納されます。

5月21日(土曜日)
午後12時30分
氏子各町神輿連合渡御
浅草神社の氏子衆は44ヶ町の町会にわかれていて、町会ごとに町会神輿を持っています。それらの神輿大小約100基が浅草寺本道裏広場に集まり、浅草神社のお祓いを受けて、浅草の町を練り歩くのが連合渡御です。女神輿、子供神輿などもあり、各町会で大いに祭りが盛り上がります。
午後3時
びんざさら舞奉納(浅草神社拝殿)
浅草神社神楽殿にて、奉納舞踊が行われます。

5月22日(日曜日)
午前6時〜日没
本社神輿各町渡御
三社祭のクライマックス。午前6時、浅草神社から神様をお乗せした本社神輿3基が、午前6時、それぞれ西部、東部、南部の浅草44ヶ町に向けて出発(宮出し)。各町会を渡御し、日没に再び浅草神社に戻ります(宮入り)。 宮入り後、神様に神輿から神殿にお帰りいただく本社神輿神霊返しの儀が行われます。


三社祭 聖天町会レポート

毎年、三社祭で特集を組んでいる「浅草い〜とこ」。今年は1つの町会をクローズアップして、「浅草い〜とこ」の特派員がリポートするという企画です。
名乗りをあげてくれたのは「聖天町会」さん。これから三社祭当日まで、よろしくお願いします!

まずはお祭りの準備段階から特派員がレポートいたします。
三社祭のため会合は、年明けぐらいから始まり、3月以降は活発になります。会合は、祭りの準備を「例年通り」スムーズに進めることと、今年の新たな決め事を周知徹底すること、そして、地域の結束を固めコミュニケーションを図る役目を持っています。

5月10日(火曜日) リポート「会合」について

会合写真 会合写真
会合写真
この日は、夜7時から「半纏合わせ」という会合がありました。地域の神輿の担ぎ手は都市化、高齢少子化の影響で、年々減っていく傾向があります。 もともと小さなエリアで担ぎ手の少ない聖天町では、20年以上前から祭り同好会と友好関係を保っています。「半纏合わせ」は、神輿の渡御を担当する町会青年部と、神輿の担ぎ手として町内が認可している友好団体との、いわば「顔合わせ」と「説明会」。とはいえ、毎年担ぎに来る古いつながりのあるところばかりなので、特に質問もなく、和やかに終わりました。

会合写真 会合写真
新任の挨拶をする吉野青年部長。喪中の為神輿が担げないので、
当日は神輿に関すること(乗る、触る他)桑原副部長が代行する。
「町会の規模は小さいですが、気持ちは大きく、がんばります!」と吉野さん。

会合写真
「半纏合わせ」終了後に、聖天町青年部の会合。
当日の集合時間・役割・女神輿に付き添う担当(男性)他、各種打ち合わせをする。
「浅草い〜とこ」の取材が入ることも、ここで承認していただく。

会合写真
青年部のきれいどころの皆さん。当日はよろしくお願いします。

会合写真
青年部をあたたかく見守る、自称「おやじ〜ず」の皆さん。

会合写真
「若い子たちが一生懸命、楽しく祭りができるよう、サポートしてやるのが、僕らの役割です」と語る大塚さん。
普段は建築関係のお仕事をされている43歳。
浅草では、43歳はまだまだ若手、現役の青年部という町会も少なくない中で、ここ聖天町のある東部方面では、祭りに関わる青年部の平均年齢が、他地域より若いのだとか。


町会長に聞きました


浅草聖天町会
小山峻介さん(72)

日本三大聖天の待乳山聖天がシンボル
池波正太郎も愛した歴史ある町

浅草聖天町会は現在の浅草6丁目から7丁目のエリアです。
浅草神社の氏子は浅草44ヶ町に分かれていて、それぞれ南部方面、西部方面、東部方面に地域分けされています。浅草聖天町会は、このうちの東部方面12ヶ町の地域に属しています。44ヶ町の中でも端の方にあり、規模も小さい町会ですが、日本3大聖天の一つと言われ、信心を集めている「待乳山聖天」をはじめ、公園が多く、緑に恵まれた地域です。履物関係の商売をやっている人が多く、「人柄温厚な商売人」気質が昔からあるように思います。

私は昭和8年、この浅草聖天町で生まれました。戦前は大通りに、路面電車が走っていて、いろいろな商売をしている商店が軒を連ねていました。通りを入ると細い路地の隅々まで家があり、今よりもずっと人口が多かったですね。
私の家の近所には、作家の池波正太郎さんの生家がありました。関東大震災の前年に生まれ、震災後すぐに地方に移っていかれたので、この町の記憶はないと思いますが、後年、ご自分の生誕の地を訪れたり、このあたりを舞台にした小説を書かれたりしています。

聖天町は関東大震災と、太平洋戦争の空襲で大きな被害を受けています。終戦の年の3月、地方の疎開先から帰京した私たち児童が目にした故郷・浅草は一面の焼け野原。焼け残った浅草小学校に待機していた私たちを、大勢の父兄が出迎えに来ましたが、家族の方が空襲で亡くなり、迎えが来なかった児童もおりましたね。
余談ですが、私の学年は、小学校の卒業式を昭和46年にやっていただいたんですよ。あの頃もらえなかった卒業証書を手にした時は、心が熱くなりました。

現在の浅草聖天町は、履物の製品や素材を扱う問屋が多く、うちもその一つで、登山靴の材料となる皮を専門に扱っています。昔はスキー靴やスケート靴などの材料にも使われて大きな需要があったのですが、最近は需要が減ったことと、靴を作る職人さんが高齢化していることから、細々とやっています。戦後と比較すれば靴関係の商売は随分と減りましたが、それでも若手が後継者としてがんばっているところもありますよ。

この地域に靴関係の商売が集まるようになったのは戦前からのことです。戦後も昭和30年代くらいまでは、全国から集まってきた住み込みの店員さんがいたり、仕入れ業者さんも活発に出入りしていましたので、町にとても活気がありました。住み込みの店員さんは三社祭の神輿の担ぎ手として大活躍していましたね。
路面電車は昭和40年代前半には廃止され、路線バスに変わりました。町からは次第に車が入れないような路地がなくなっていき、町並みも大きく変わっていきました。

昭和40年代には、若い人たちの心が地域よりも会社に向かったのでしょうか、全国的に地域の祭りが衰退した時期がありました。三社祭もその例に漏れず、衰退してしまったのですが、その後、何かのきっかけで祭りが見直されるようになり、昭和50年代には再び盛り返して現在まで続いています。私もちょうどその頃、若手として町会の仕事に関わるようになりました。

三社祭そのものは、私が町会に入った当時とあまり変わらないのですが、町会の構成員は変わりましたね。例えば昭和50年代には1棟しかなかったマンションも、今では15棟ほどもあるんです。浅草に憧れてマンションを買ったというご家庭もあり、近年は、そういった方々も町会に参加するようになりました。

三社祭の浅草聖天町会代表として、
祭典委員長と共に陣頭指揮に立つ

三社祭の3日間は、私と祭典委員長は代表として各行事に参加します。行列や御霊入れ、神輿の渡御など、3日間に様々な行事がありますので、ほぼ出ずっぱりになりますね。店はシャッターを下ろして休業です(笑)。

私は町会長になって4年目になります。三社祭は毎年5月の第3週に行われますが、今年は5月の頭が日曜日でしたので、5月20日〜22日というスケジュールになりました。ゴールデンウィークから少し間がありますので、運営的にはラクです。
昨年は12年に一度順番がまわってくる「宮入」を、浅草聖天町会が担当しましたので、いろいろと大変でした。今年は昨年よりも、だいぶ落ち着いています。

毎年、11月頃から翌年の三社祭のための会合が始まるのですが、いつも課題になるのが「宮出し」のことです。昨年は氏子衆になかなか本社神輿が渡らず、本社神輿渡御に1時間半〜2時間の遅れが出ました。各町の代表で頭をひねり、解決策を練っています。
それから、気になるのはお天気のこと。毎年、必ず1日は雨に降られますが、今年はどうなるでしょうか。

三社祭の良さは、個人ではできない
「団体旅行」の良さに似ている

三社祭は、大勢の、地域の人たちの協力があってこそできるお祭りです。婦人部も炊き出しに接待、子供たちへのお菓子配りと大活躍です。世代や職業を越えて、地域でまとまり、協調すること。そこから生まれるパワーや喜びは、個人では決して味わえないものだと思います。
今は、旅行一つとっても「個人」がもてはやされる時代ですが、「団体旅行」には団体旅行の良さがありますよね。私は、三社祭の良さは、この「団体旅行」の良さに似ているように思っています。

三社祭など、浅草に来られるのは外国からの観光のお客様や年配の方が多いですが、浅草には最新スポットとは違った良さや活気があると思います。
また、祭りやイベントはもちろんですが、この地域でいえば、桜の季節、新緑の季節と四季折々に美しい墨田公園など、普段着の浅草にもいいところがたくさんあります。
ぜひ、若い人たちに、もっと浅草に来て、浅草の魅力を知ってほしいと思います。


*昭和30年代の言問橋付近の写真

これは子供神輿の写真ですね。町内の半纏はなく、皆、思い思いの格好で担いでいますね。当時は男の子や若い衆が、顔におしろいを塗ったり、鼻の頭を赤く塗ったりしていました。昭和40年代前半までその風習が残っていましたが、今はやりません。なぜ、あんな風習があったのか不思議です。

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