トップへ トップ > 特集 > 2004年隅田川花火大会

2004 隅田川花火特集

花火背景

1. 2004年の詳細
    日時・会場
    花火大会コンクール
    花火大会を楽しむ
2. 隅田川花火の歴史
3. 鍵屋と玉屋
4. 花火の分類
5. 両国花火資料館

2000年隅田川花火大会特集 2003年隅田川花火大会特集

隅田川花火の歴史
〜両国川開きから現在の隅田川花火大会に至るまで〜

慰霊祭として始まった大花火
 1732(享保17)年、中国大陸から渡ってきた「浮塵子(うんか)」という害虫が西日本一帯に大発生し、農作物が大きな被害を受けました。これが100万人とも言われる餓死者を出した、いわゆる「天保の大飢饉」の元凶となったのです。運悪く、同じ頃に江戸ではコレラが大流行し、多数の死者を出す惨事となっていました。
8代将軍徳川吉宗は、このあまりに不運な年の災厄を打ち払い死者の霊を慰めるため、翌年1733(享保18)年旧暦の5月28日、両国で「水神祭」を挙行しました。同時に隅田川両岸の水茶屋が大々的に「川施餓鬼」を催したので、いっそうにぎやかなお祭りになりました。この時に打ち上げられた20発の大花火が、隅田川の花火の始まりと言われています。花火師は鍵屋6代目篠原弥兵衛と記録されています。
以後、大花火は「両国の川開き」のメイン・イベントとして江戸の恒例行事となりました。
 ところで花火を日本で最初に見たのは、徳川家康だったと言われています。1613(慶長18)年8月6日、イギリス王ジェームズ1世の使いとしてやってきたイギリス人が、手土産として家康とその家臣たちの御前で手筒花火を披露しました長い戦乱の時代にあった日本にとって、花火の原料となる火薬は大切な「武器」でし かありませんでした。しかし、江戸時代に入り天下泰平の世の中になると、鉄砲や大砲を扱っていた職人や砲術師など職にあぶれる人たちが出てきました。日本で花火が発展したのは、これらの人たちの転職先として、平和な時代を彩る花火が最適だったからとも言われています。彼らによって、現在にいたるまで続く「世界中で最も美しい」日本の花火技術が確立していったのです。
「隅田川花火大会」に 名を変えて復活!
 1938(昭和13)〜47(昭和22)年までの11年間、戦争のため中断を余儀なくされた両国の大花火が復活したのは1948(昭和23)年8月1日のことでした。この時は70万人の人出で、大いに賑わったといいます。しかし、交通事情の悪化により1961(昭和36)年を最後に終了。1978(昭和53)年7月20日に、「隅田川花火大会」と名称を変えて復活するまでに十数年の月日を要しました。
「隅田川花火大会」は、東京都及び墨田区、台東区、中央区、江東区による公共事業として再スタートしました。これらの地域の住民を代表する隅田川花火大会実行委員会が組織され、運営に当たっています。
隅田川花火大会の特徴は、5号玉(直径14.2センチ、重さ1.3キロ、打ち上げ時の直径150メートル)が中心であることです。ちなみに、東京湾大華火大会で上げられる尺玉は、直径29.5センチ。重さ8.5グラム、打ち上げ時の直径300メートルです。長岡の花火大会などでは、それ以上の2尺玉、3尺玉も上げられています。実は1959(昭和34)年に両国の花火大会で打ち上げられる花火は4寸(号)玉以下という規定が設けられていたのですが、「他の花火大会に比べ、あまりに見劣りがする」ということで、関係者が請願して1986(昭和61)年の隅田川花火大会から5号玉の復活にこぎつけたという経緯があります。護岸工事のために年々川幅が狭くなる中で、隅田川で上げられるサイズの花火は防火上、5号玉がギリギリというのも仕方の無いことでしょう。
このような制約がある中で、いいえ、制約があるからこそ大いに盛り上がるのが、隅田川花火大会の華、「コンクール」です。国内の大会で選抜された優秀な業者に両国ゆかりの業者を加えた10社ほどの花火製作会社の花火師たちが、毎年、桜橋下流〜言問橋上流の第一会場で、その技を競い合います。江戸時代からの伝統を受け継ぐ正統派の花火大会を、ぜひ、楽しんでみてください。

無断転載をお断りします!

copyright