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秋葉神社

墨田区向島4−9−13

神社周辺が五百崎の千代世と呼ばれていたころ、千代世稲荷大明神として正応2年(1289年)に創建されたと伝えられています。元禄15年(1702年)千葉葉栄が、秋葉神社の別当寺・千葉山満願寺を創建、秋葉千代世稲荷合社として社殿を造営しました。明治元年に秋葉神社と改称されました。境内には、1700年代に江戸幕府の有力者によって奉納された石造燈籠が残されています。江戸時代に火伏せの神として信仰を集めた秋葉信仰の名残です

芥川龍之介文学碑

墨田区両国4-26-6 両国小学校内

芥川龍之介は、13才のとき、母の兄である芥川道章の養子となり、現在の墨田区に移り住みました。明治43年(1910年)、両国高校の前身である府立第三中学校を卒業しています。彼は思春期のほとんどをこの地ですごしました。後に数々の名作をのこしましたが、この碑文には代表作の一つである「杜子春」の一節が刻まれています。

アサヒビール吾妻橋ビル

墨田区吾妻橋1-23-1

おなじみ隅田川エリアのモニュメントとして定着してきたアサヒ本社ビル。
平成元年にお目見えしました。
一般の人が社内を見学はできませんが、21階、22階には隅田川の景色をみながらのイタリア料理を味わえるレストランがある。右隣の建物は聖火をモチーフにした吾妻橋スーパードライホール。

伊藤佐千夫旧居跡

墨田区江東橋3-13

JR錦糸町駅南口に旧居跡の碑があります。伊藤左千夫は、明治22年、28歳で牛乳搾取業として独立、「業乳改良社」を興しました。その場所がこの地です。後に正岡子規と親交を結び近代和歌や小説など日本文学に大きな貢献をした。この地は歌誌「馬酔木」創刊時の発行所となった記念すべき場所です。

牛島神社

墨田区向島1-4-5

本所の総鎮守。貞観年間(859−879年)のころ、慈覚大師によって建立されたと伝えられています。関東大震災後の墨田堤の拡張により向島須崎町から昭和7年に現在の地に移されました。慈覚大師が通りかかったとき、老翁が「師わが為に一宇の神社を建立せよ、若し国土に悩乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と託宣したことから牛御前と改称したといわれています。牛島の由来は、天武天皇の時代(701−764年)に両国〜向島が牛島といわれ国営牧場が設置され、その後この地区を浮島牛牧と称され牛島の出埼に位置することから称されたという説もあります。正面の鳥居は三輪鳥居。本殿前には、狛犬の代わりに「狛牛」があります。体の悪いところと同じ場所を撫でると病気が治るといわれ、「撫で牛」として有名です。

回向院

墨田区両国2-8-10

約350年前、明暦の大火による焼死者を供養するために江戸幕府が建立した浄土宗の寺院です。「振袖火事」として知られる大火では、多くの身元や身寄りのわからない人が犠牲になりました。 当時の将軍家綱は、無縁の人々の亡骸を葬るようにと隅田川の東岸に土地を与え「万人塚」という墳墓を設け、大法要を執り行いました。このとき、念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の始まりです。供養の勧進相撲もしばしば行われ、1909年6月、境内に相撲の常設館が完成し、国技館と命名されました。これが旧国技館です。また回向院の墓地には、時代劇で活躍するねずみ小僧の墓があります。昔からその墓石を削りお守りとする風習が盛んで、現在でも多くの受験生が合格祈願に訪れています。

江島杉山神社

墨田区千歳1-8-2

鍼の神といわれ、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えたことで知られる杉山和一総検校が、五代将軍綱吉公の命により相州江島神社の御分霊を祀りました。昭和27年、杉山和一総検校も合祀され、その際に「江島神社」から「江島杉山神社」と称されるようになりました。この神社には、特殊信仰として「いわやみち」の奥まった岩室に古くから三体の石像が祀られています。

えんま堂(華厳寺)

墨田区本所2-12-3

江戸期に華厳寺の閻魔さまとして親しまれていた閻魔堂が昭和53年、現在の本堂とともに再興されています。山門を入ると右手に閻魔堂があり、カッーと目を見開いた閻魔さまが目に飛び込んできます。閻魔さまの左隣には亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上に待つ懸衣翁に渡すという老女の鬼「脱衣婆」の像がオドロオドロした形相で暗い中に潜んでいます。資料:墨田区文化観光協会

大横川親水公園・長崎橋広場

長崎橋:亀沢4丁目/大横川親水公園:吾妻橋3丁目〜緑4丁目

大横川は、明暦の大火を契機とした幕府の本所深川の大規模な開発で生まれました。湿地を開削して造られたこの川の周辺は、地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しい地域でした。低い土地では川の水が溢れると浸水する危険があったため、墨田区は川の一部を埋め立て親水公園として整備し、錦糸町と押上・業平を結ぶ緑と水の豊かな「大横川親水公園」となりました。北斎通りに架かっていた「長崎橋」は撤去されましたが、その横の広場は催物会場として賑わっています。紅葉橋上流では本所七不思議のレリーフを見ることができます。

勝海舟銅像

墨田区吾妻橋1-23-20

勝海舟は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれました。幕末から明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、海国日本の基礎を築き多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取決め、江戸を戦禍から守りました。墨田区民を中心に全国から募金が集められ「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものです。

葛飾北斎生誕の地

墨田区亀沢1丁目「北斎通り」

江戸後期に浮世絵師として活躍し、「富獄三十六景」や「北斎漫画」で有名な北斎は、宝暦10年(1760年)、本所南割り下水に生まれました。生涯に93回の転居を繰り返したといわれています。また画号も30回も改号しています。「北斎」は、一時期の画号です。生誕の地である墨田区亀沢には、「北斎通り」があり、北斎ギャラリーとして街路灯に北斎作品が展示されています。

香取神社

墨田区文花2-5-8

小村井村の鎮守。平安時代の末期、この地域の開拓のために千葉県香取郡から六軒の人びとが移り住み香取神宮を御分霊したと言われています。江戸時代には神社の東側に広大な梅園があり、多くの人が観梅に訪れました。明治43年の大水で廃園となりましたが、平成6年、境内に往時の小村井梅園を偲び「香梅園」が開設され、80余種、120本の梅木があり、梅の季節には見事な花を咲かせます。

亀戸天神社

江東区亀戸3-6-1

正保年間(1644-1647)、九州太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐公(道真公の末裔・亀戸天神社初代別当)は、公ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもって、諸国を巡り歩きました。そして寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、天神像を奉祀したのが始まりといわれています。当時江戸幕府は本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害から復興に向けた復興開発事業の地とさだめていました。四代将軍家綱公は天神様を篤く信仰していた為、その鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。そして、寛文二年(1662)に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などが造営されました。昔は、総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていましたが、明治6年(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11年(1936)に亀戸天神社となりました。

旧安田庭園

墨田区横網1-12-1

旧安田庭園は、元禄年間に常陸笠間藩主によって造園された、汐入り回遊式の江戸名園の一つでした。明治24年、安田財閥・安田善次郎の所有となりが、大正11年に東京市に寄付され、現在の名称となりました。その直後、関東大震災により名園の面影を失いましたが、東京市により復元され、市民の庭園として昭和二年に市民の庭園として開園されました。昭和42年、東京都から墨田区に移管され、墨田区が全面改修工事を行い、平成8年、東京都の文化財に指定されています。

吉良邸跡・本所松坂町公園

墨田区両国3-13-9

浅野匠頭守による殿中刃傷事件後の元禄14年(1701年)9月3日に吉良上野介義央が拝領して建設された吉良家の上屋敷の跡地です。上屋敷は約2,550坪の広さだったと伝えられています。「忠臣蔵」として知られる元禄15年12月14日の赤穂浪士の仇討ちは、この場所で行われました。この名所を惜しんだ地元の両国3丁目会有志会が発起人となり旧吉良邸の"吉良の首洗い井戸"中心に土地を購入し東京市に寄付され「本所松坂町公園」として残されました。広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のミニチュアながら、なまこ壁が往時をしのばせてくれます。

錦糸公園

墨田区錦糸4-15-1

大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な状態となった東京の復興事業の一環として墨田公園、浜町公園とともに計画、実行された公園です。帝国陸軍の倉庫であった場所が整備され、昭和3年(1928年)7月に開園されました。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災による死者の仮埋葬所にもなりました。戦後は人々の憩いの場として使われるようになりさまざまな設備が整備されました。再開発によりオフィスや飲食店が入った商業施設「オリナス」が2006年にオープンしました。

区役所うるおい広場

墨田区吾妻橋1-23-20

隅田川沿いの墨田区役所敷地内にある広場。フリーマーケットなどのイベントも開催され、敷地内には「勝海舟銅像」が設置されています。

見番通り

墨田区向島1丁目〜5丁目

言問橋東交差点から北に、墨堤通りと国道6号の中間に位置する約700mの細い道です。この通りの中ほどに「墨田墨堤組合(見番所)」があることから名づけられました。通りには南から「すみだ郷土文化資料館」「三囲神社」「弘福寺」「長命寺」などが隣接し、墨堤通りと合流する通りの北端の近くには、世界のホームラン王・王貞治の"一本足打法"のレリーフが掲げられている「墨田公園少年野球場」などがあります。

元徳稲荷神社

墨田区立川3-18-2

河村徳右衛門が三河岡崎(愛知)にいた時、河村家の氏神様として伏見稲荷社より分霊を勧請して邸内の稲荷社へ遷してお祀りしたのが始まりと伝えられています。徳川家康が江戸城を開いた折、河村氏も神田川沿岸に土地を与えられ、同時に稲荷神社も江戸の邸内に移されました。二代目・徳右衛門の妻が、難性の腫物を患い祈願して平癒したことから、町の人々の信仰となり、腫物が平癒すると土地の産物の里芋を供えてお礼をしたそうです。分霊を勧請した元徳稲荷神社綱敷天満神社が中央区日本橋浜町にあります。

幸田露伴の文学碑

墨田区東向島1-7-11 露伴児童公園内

幸田露伴が明治41年から大正13年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治26年冬この寺島町界隈に来住し、それから約30年最も力の溢れた時期をこの地にすごし、数々の名作を書いています。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲などをして、よく庭で遊んだということです。この地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏により区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園となりました。

弘福寺(隅田川七福神)

墨田区向島5-3-2

かつて隅田村香盛島(高森島)にあったのが起源。延宝6年(1673)鉄牛道機禅師が黄檗宗弘福寺としてこの地に創建したと言われています。風邪除けの信仰を集める咳の爺婆尊や隅田川七福神の布袋尊が祀られています。当時の建物は関東大震災で被害にあい、現在の建物は昭和8年に再建されたものです。

浩養園跡

墨田区吾妻橋1-23

墨田区役所周辺は昔、常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として知られていました。文政5年(1822)水野忠成の別邸となり、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むこともできたそうです。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭としてて一層有名となり、明治23年から一般公開もされました。その後、明治33年札幌麦酒東京工場がここに設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年の工場拡張やつづく関東震災により、その面影は失われてしまいました。平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現在に至っています。

国技館

墨田区横網1-3-28

大相撲の興行のための施設。1年6回のうち初・夏・秋の三場所が開催されます。その他ボクシングなどの格闘技やコンサートの会場としても使用されることもあります。大相撲の番付では國(こく)技館と旧字体で書かれています。大鉄傘の通称で親しまれた旧国技館は、両国2丁目にありましたが、解体され「両国シティコア」となっています。現在の国技館は1984年11月に完成し、1985年の初場所から使用されるようになしました。錦絵や番付、化粧廻しなど相撲に関する資料を収集・保存している「相撲博物館」も併設されています。また、地下に「焼き鳥工場」があることでも有名です。

寿座の跡

墨田区緑2-16-13

本所相生町5丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治25年一度廃絶しましたが、明治31年、この場所に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居の劇場として開座しました。庶民だけではなく芥川龍之介・三島由紀夫を始めとする著名人などの楽しみの場となっていました。惜しくも昭和20年2月閉座となり、その後3月10日、戦災により焼失し、その幕を閉じました。芥川龍之介の[追憶」や「本所両国」にも登場しています。

小林一茶・立川焉馬の旧居跡

墨田区緑1-3-4

俳人として有名な小林一茶が江戸生活29年のうち、文化元年(1804)から5年程住んだこの相生町の借家が一番安定した住まいだったと言われています。不幸があり帰郷している間に他の人に貸されてしまい、その後は、再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となってしまいました。そして、落語を復興させた戯作者で大工の棟梁、烏亭(立川)焉馬もこの辺りに暮らしていたそうです。

春慶寺(四世鶴屋南北の墓碑)

墨田区業平2-14-9

元和元年(1615年)に浅草森田町の地に創建され、その後寛文7年(1667年)に浅草から本所押上村に移転しました。「東海道四谷怪談」の作者として有名な、四世鶴屋南北の菩提寺として知られています。また、池波正太郎氏が作り上げた傑作『鬼平犯科帳』の中で、鬼平の親友 岸井左馬之助の寄宿先として、たびたび登場します。見返り白象さまや「関東俳優之碑」があることでも知られています。

白髭神社(隅田川七福神)

墨田区東向島3-5-2

天暦5年(951)に慈恵大師が関東に向かっている時に、近江国比良山麓に鎮座していた白髭大明神の御分霊をこの地に祀ったと伝えられています。神社の御祭神猿田彦命(さるたひこのみこと)が、天孫降臨の時に道案内としてたたれたという神話から、後にお客様を自分の店に案内して下さる神としての信仰が始まったということです。向島では最も古い由緒ある神社の一つで、隅田川七福神の寿老神として知られています。

隅田川神社

墨田区堤通2-17−1

神社の創建に関しては不詳ですが、源頼朝が平氏打倒の際に、下総から武蔵に入るとき、仮設の船橋をかけて隅田川をわたり、その時に水神の霊を感じて創建したという説があります。元は「浮島神社」といい、水神社、水神宮、浮島宮などと呼ばれ「水神さん」と親しまれていたようです。明治5年(1872)に「隅田川神社」と改称しました。社殿の前には狛犬のかわりに石亀がおかれていることも有名です。

隅田公園

台東区花川戸1-1

右岸には台東区浅草、花川戸、左岸には隅田区向島をまたがる隅田川沿いにある公園。公園内には約700本の桜があり、毎年さくらまつりが開催されます。また、夏の隅田川花火大会でも有名です。園内にはリバーサイドスポーツセンター、マラソンコース、野球場、アスレチック遊具などがあります。春の桜、初夏のアジサイ、秋のヒガンバナ、冬の梅など…、四季折々の花を楽しむことができます。

すみだリバーサイドホール

台東区花川戸1-1

隅田川に面し、墨田区庁舎に隣接した複合施設。700人収容のイベントホールをはじめ、会議室、ギャラリー、ミニシアターなどの多彩な施設があり、さまざまな催しも開催されています。また、すみだの魅力を知ることもできます。

高木神社

墨田区押上2-37-9

應仁2年の創祀されたと伝えられています。旧寺島村新田の鎮守として広く尊崇されており、古くは「第六天社」と呼ばれていました。当時、天台宗正圓寺が別当として管理されていましたが明治初年、神仏分離の制度が定められたときに、社名を「高木神社」と改めました。

堅川親水公園

墨田区江東橋1丁目

大横川合流点から横十間川合流点までの全長およそ890メートルを埋め立てて昭和46年に完成した公園です。園内にはグランドゴルフ場・テニスコート・ゲートボール場などの施設があります。

多聞寺(隅田川七福神)

墨田区墨田5-31-13

創建の時代は不詳ですが、天徳年間(957−960)には大鏡山明王院墨田寺と呼ばれ、現在の墨田川神社の近くにあったと伝えられています。当時は不動明王を本尊としたそうです。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。隅田川七福神の毘沙門天として知られています。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財となっています。妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨など多くの文化財を有しています。

長命寺(隅田川七福神)

墨田区向島5-4-4

長命寺の創建年代は不詳ですが、宝寿山常泉寺と号していたといわれています。寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に腹痛を起こしたので、ここで休息をとり、当時の住職が持ってきた境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したと言い伝えられています。家光が、その井戸水に長命水の名を捧げられると共に、長命寺と呼ばれるようになったといわれています。隅田川七福神の弁財天としても知られています。

天祥寺

墨田区吾妻橋2-6-5

寛永3年に創建されました。松尾芭蕉が江戸出府後の数年にわたり、寄宿していたいわれています。芭蕉の俳号「桃青」より寺号は名付けられています。なお、宝暦2年に白牛山東盛寺と寺号を改めましたが、明治25年に再び芭蕉山桃青寺に戻りました。境内の植栽の中に「芭蕉わらじ脱ぎの寺」をあらわすように、芭蕉山桃青寺の寺号が刻まれた自然石が置かれています。芭蕉の俳風を継ぎ、江戸中期に俳句革新に努めた長谷川馬光の墓もあります。

桃青寺

松尾芭蕉が江戸出府後の数年間寄寓していたといわれ、芭蕉の俳号「桃青」を寺号に。境内の植栽の中に「芭蕉わらじ脱ぎの寺」をあらわすように、芭蕉山桃青寺の寺号が刻まれた自然石が置かれています。芭蕉の俳風を継ぎ、江戸中期に俳句革新に努めた長谷川馬光の墓があります。

徳山稲荷神社

墨田区石原1-36-10

本所・深川の埋め立て・道路整備など開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。彼の死後、その功績が称えられ、すでに屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊を合祀して、徳山稲荷神社として守られています。ここには、侠骨剣豪として知られる日本左衛門首洗い井戸跡、石碑が残されています。徳山五兵衛が、日本左衛門を捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがないというので、処刑する前に日光参拝を許したそうです。徳山五兵衛の人柄が偲ばれる逸話です。

飛木稲荷神社

墨田区押上2-39-6

鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れて定住し、稲荷大明神を祀ったことに始まったといわれています。別の言い伝えによると、暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか大きくそびえたことに由来して、「飛木稲荷神社」と命名されたとも言われています。このイチョウの木は樹齢500〜600年と言われ、墨田区内に現存する樹木では最古の大変貴重なものです。

 

如意輪寺

墨田区吾妻橋1-22-14

嘉祥2年(849)、比叡山四祖慈覚大師円仁が唐から帰り、故郷の下野国(栃木)大慈寺へ戻るときに、聖徳太子自作の太子像をここに安置したことに始まるといわれています。境内に聖徳太子像を祀った堂があることから、牛島大師堂、中ノ郷大師堂の名で広く知られていましたが、現在はありません。また、境内に延宝6年(1678)銘のある珍しい六面地蔵堂があることで知られています。

 

能勢妙見山別院

墨田区本所4-6-14

大阪府にある能勢妙見山の唯一の東京別院です。本堂に祀られている妙見大菩薩は北斗七星・北極星を神格化した仏様で、開運の守護神として知られています。妙見山別院は、親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことでも有名です。そのため、ゆかりの品が多く所蔵されていましたが、関東大震災と東京大空襲の二度の災禍でその多くを焼失してしまいました。その中でも自筆の掛け軸や写真などは今も現存しています。境内ににある勝海舟の胸像は、彼を偲んで、地元有志の建てたものです。また、平成22年にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」でも紹介され、歴史ファンなど多くの参詣者が訪れています。

 

野見宿禰神社

墨田区亀沢2-8-10

神社の東側に初代高砂親方部屋があったとき、初代高砂親方の尽力によりって、元津軽家の屋敷跡のこの地に明治17年(1884)に創建したといわれています。相撲(角力)の神である野見宿禰(のみのすくね)を祀り、現在に至るまで相撲協会や関係者の崇敬を集めています。 また、年3回の東京場所の取組編成会議終了後に、出雲大社教の神職のもと例大祭が行われます。また、新横綱が誕生した場合には、この社殿の軒先で土俵入りを披露するのが慣例であり、境内には歴代横綱碑などもあります。

 

長谷川平蔵屋敷跡

墨田区菊川3丁目16

「鬼平犯科帳」の火付盗賊改長官として有名な“鬼平”の屋敷跡です。長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(1746)赤坂に生まれました。その後19歳の明和元年(1764)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通り菊川に移ってきました。長谷川家は三方ヶ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で、家禄400石でしたが、将軍近侍(きんじ)の御書院番(ごしょいんばん)の家として続いてきました。天明六年(1786)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)1500石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)につきました。通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(1795)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。

 

榛稲荷神社

墨田区両国4-34-11

江戸時代、この周辺には榛馬場と呼ばれ、武士が馬術を訓練する練習場がありました。練習場の土手に大きな榛の木(はんのき)があったので、この馬場は「榛馬場」と呼ばれていました。この榛の木の傍に祀られていたのが「榛稲荷神社」と呼ばれていました。また江戸時代には、周辺に葛飾北斎や勝海舟など多くの著名人が住んでいました。

 

東白鬚公園

墨田区堤通2-2-1

墨田区の北端、隅田川に沿うような南北に細長い公園で、緑とレクリエーションの場でもあります。公園の東側には、高層住宅が並び、公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点となっています。園内には野球場・テニスコートなどもあります。また、定期的にフリーマーケットが開催されます。 木母寺と隅田川神社が公園に隣接しています。

 

福厳寺

墨田区東駒形3-21-3

江戸開初以前の延徳3年(1491)の起立と伝えられています。三代将軍徳川家光が父秀忠の追福のために寄進した門が朱塗りであることから、赤門寺と呼ばれていました。関東大震災、戦災で焼失してしまい、現在の赤門は、戦後に復興されたものです。当寺には、赤穂浪士大石蔵ノ助の縁者である、大石三平や原田きぬの墓があることでも有名です。大石三平は、四国松山の松平家江戸家老で、横網に住み、福厳寺の住職を禅の師として親しく、三平は赤穂義士の吉良家討ち入りの際に当寺を密談に利用すなど、協力していたと伝えられています。寺宝として本尊釈迦如来木像、十一面観世音、無尽地蔵菩薩、大般若教六百巻があります。

 

舟橋聖一生誕の地

墨田区横網1-11-1

両国国技館と安田庭園との間、北越製紙の一角に作家舟橋聖一生誕の地を記念した碑です。彼は明治37年(1904)東京市本所区横綱町のこの地に生れました。彼の代表作「花の生涯」は幕末の大老・彦根藩主井伊直弼を主人公に描いたもので、昭和27年(1952)〜28年にかけて毎日新聞に連載し、後にNHK大河ドラマ第一作となりました。「新忠臣蔵」も有名です。

 

法恩寺

墨田区太平1-26-16

長禄2年(1458)に大田道灌が江戸城築城時、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立開基しました。開山は本住院日住上人で当初は本住院といいましたが、道灌の跡を継ぎ城主となった法恩斎の年忌に際し、法恩寺と改めました。その後、神田柳原〜谷中清水町と移転した後、1695年(元禄8年)に現在地に移りました。境内には、大田道灌の墓や平河清水稲荷大明神、鐘楼三重塔などがあります。現住所の太平は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字からとり命名されたものと言われています。江戸時代には、谷中宗林寺、浅草幸龍寺とともに京本国寺末触頭(ふれがしら)を勤め塔中二十ヵ寺、末寺十一ヵ寺を擁した、大きな影響力を持つお寺だったようです。

 

法性寺

墨田区業平5-7-7

江戸時代から柳島妙見と呼ばれて信仰する人の多い寺だったようです。明和元年(1492)建立で、北辰妙見大菩薩を奉安した妙見堂があります。妙見大菩薩は北斗七星を神化したもので、国土を守り貧窮を救うと言われ、端麗な天女形の仏様です。法性寺は、墨田区でもっとも古い寺院です。古くから歌にも歌われ、多くの錦絵にもその偉容が残されています。開創より吉運を開いた人物が多く、祈願と供養の寺として親しまれています。境内には近松門左衛門、豊国筆塚、落語柳家など所縁ある人の碑が多数あることでも有名です。

 

堀辰雄住居跡

墨田区向島1-7-6

堀辰雄は明治43年(1910)、6歳のときにこの場所に引っ越してきました。それ以前は近くの小梅町に住んでいましたが、明治42年の大洪水で家が水に浸かったために、比較的被害の少なかった新小梅町に移り住んだと言われています。その頃のことを辰雄は『幼年時代』という随筆の中で回想しています。「聖家族」や「風立ちぬ」などの作品もこの場所で執筆しました。

 

三囲神社(隅田川七福神)

墨田区向島2-5-17

慶長年間(1596-1615)この地に移築されました。昔の神社を建てる時、土の中から壷が出てきたので中を開けてみると、老翁の神像が入っていた。その時白狐が現れて、像の周りを三度回ったので、三囲神社となっといわれているそうです。隅田川七福神 恵比寿神・大黒神としても有名です。三囲神社は、江戸時代から三井越後屋(今の三越)と深い縁の神社として知られています。別院には、大國天、恵比寿神を祀った小さな社がありますが、使用されている建材は取り壊した越後屋の廃材。本尊は三井越後屋にあったものを江戸時代末期に現在の地に移転されたものです。

 

弥勒寺

墨田区立川1-4-13

慶長15年(1610)宥鑁が徳川家康から江戸の鷹匠町に寺地を下賜されて建立。その当時は、弥勒菩薩を本尊としていました。その後、徳川光圀から寄進された薬師如来を本尊とし、江戸十二薬師のひとつとして有名になりました。寺領100石の朱印状拝領、真言宗関東四ヶ寺として触頭を務め、格式があったと伝えられています。いまでは、御府内八十八ヶ所霊場46番札所として知られています。

 

三輪里稲荷神社

墨田区八広3-6-13

慶長19年(1614)出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のひとつ、湯殿山の大日坊が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稲荷大明神として創建されたといわれています。通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて人々の信仰を集めています。江戸時代、このあたりは農村地帯だったが、流感が流行ったときに、神社でこんにゃくを竹串にさして茹でた汁を村人に飲ませてたところ、風邪が治ったということから、「こんにゃく稲荷」と呼ばれるようになったようです。いまでも、初午の日に「こんにゃくの護符」が授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くといわれています。

 

向島百花園(隅田川七福神)・万葉歌碑

墨田区東向島3丁目

江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜1830年)に造られた庭園です。庭を造ったのは、骨とう商を営んでいた仙台出身の佐原鞠塢(さはらきくう)。交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、文化6年(1809)に開園しました。開園当初は、360本もの梅の木が植えられたことから、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたという説もあります。また、芭蕉の句碑を含め、合計29の句碑・石柱が庭園内随所に建ち、庭造りに力を合わせた文人墨客たちの足跡をたどることができます。

 

木母寺

墨田区堤通2-16-1

亭元元年(976)僧の忠円阿闍梨が梅若丸の墓石を築き、柳の木を植えて供養しました。その側に念仏堂が建立されたことが始まりといわれています。明治時代に廃寺となった後、梅若神社と呼ばれましたが、明治21年(1888)に、佛式に戻り、昭和51年(1976)にこの地に移りました。芸道上達の寺としても知られる千年の歴史を誇る由緒正しいお寺としても有名です。境内にある梅若塚は謡曲「隅田川」によって知られ、能「隅田川」の梅若山王権現であることから梅若寺とも呼ばれています。寺号の木母寺は、梅の文字からつけられたと伝えられています。

 

森鴎外生育の地

墨田区向島3-37-25 本所高校内

夏目漱石と並ぶ明治の文豪・鴎外は、十歳のとき、津和野から父静男に伴われて、向島小梅村の津和野藩亀井家の屋敷内に上京し、その後も屋敷近くに住み、少年時代をこの地で過ごしたそうです。大正11年(1922)、向島弘福寺に葬られましたが、現在は三鷹禅林寺に移転しています。鴎外最初の号は曳舟川からとった牽舟居士を名乗り、鴎外の号は隅田川に飛び交う都鳥(ユリカモメ)に因んだものとの説もあります。

 

横綱町公園・東京都慰霊堂

墨田区横網2-3-25

「被服廠跡」「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」とも呼ばれています。関東大震災(大正12年9月1日)で、この界隈の人々が「被服廠跡」に避難をしましたが、多数の焼死者がでました。多くの犠牲者の遭難者の霊を供養し、さらに官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、園内に「東京都慰霊堂(昭和5年)」と「復興記念館(昭和6年)」が建てられました。その後、東京大空襲の犠牲者である一般戦死者の霊も安置しています。

 

与兵衛ずし跡

墨田区両国1-8-8

現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約200年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれています。当時、鮨といえば大阪風の押し鮨でしたが、酢で締めた飯の上にワサビをはさんでネタを乗せ握り、屋台で立喰いするという新しいスタイルの鮨は、一挙に江戸っ子の人気となり殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられています。与兵衛は、握り鮨を岡持ちに入れて盛り場を売り歩くことから始め、文政7年(1824)この地(墨田区両国1-8)に店を開きました。この成功により、鮨屋という形態が確立、今や世界の人々が絶賛する日本食の礎を築きました。

 

蓮花寺

墨田区東向島3-23-17

鎌倉幕府五代執権北条時頼の甥である頼助が建立。時頼が兄の武蔵丸経時追福のために、鎌倉に建立した蓮華寺を経時の子・頼助が当地へ遷したと伝えられています。本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられ、寺島大師呼ばれ、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに江戸三大師と言われていました。

 

両国シティコア シアターΧ(カイ)

墨田区両国2-10-14

大相撲の発祥地に生れた「両国シティコア」は、東京都が土地信託方式で開発した大型複合ビル施設です。快適で新しい下町生活の拠点となる「ライフビット」。広大なスペースを確保したイベントスクエア「プレイビット」、ヘルシーな日々の「スポーツビット」、シアターやギャラリーなどのコミュニティスペースまでも擁します。シアターX(カイ)は1990年代に生まれたビルの1・2Fを占める劇場で、実験的な作品の上演や若手へ無償劇場開放が企画されています。

 

わんぱく天国

墨田区押上1-47-8

昭和62年(1987年)にオープンし、子どもたちがのびのび遊べる公園として造られたユニークな墨田区立の施設です。園内は3ゾーンに分かれており、プレイリーダーと呼ばれるスタッフが常駐していて、小さな子どもを安心して遊ぶことができます。付設されている工作室には道具がそろっていて、子どもたちが各種の工作を楽しむことができるようになっています。また、地元の有志の人たちによる「かぶと虫とほたる鑑賞の夕べ」「わんぱく雪まつり」など、季節のイベントも開催され、自然に触れる機会の少ない都会の子どもに格好の遊び場となっています。

すみだにはたくさんの見どころあり!

見どころリスト