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日本人によるオペラ初上演から100年…
浅草テプコ館で開催された『浅草オペラの時代』展
をご紹介します!

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浅草オペラの中には色々な要素が含まれていますが、その中でも重要なポイントとして帝劇オペラの流れを考えないわけにはいかないでしょう。和製ミュージカルが人気を博した後、清水金太郎・静子夫妻、原信子、田谷力三らが相次いで浅草に進出し、オペラ・オペラッタの上演を定着させたことで、浅草オペラが実現しました。 彼らはいずれも帝劇、ローヤル館と続く流れの中、ローシーの元でレパートリーを身につけた方たちです。浅草で上演した演目も、帝劇、ローヤル館で初演されたものが少なくありません。 帝劇の流れはオペラ俳優だけには限りません。石井獏らの舞踏家も帝劇歌劇部の出身者ですし、また高木徳子も帝劇の舞台で踊って売り出したダンサーでした。

各種の国産ミュージカルが続く
高木徳子は関西への旅興行中に病気で一座を解散しますが、帰京して新劇の伊庭孝と意気投合、新たに歌舞劇協会(正式の命名は後)というグループを作り、大正5年10月に伊庭孝の洋風台本による音楽劇公演を開始します。翌年「女軍出征」ほかが大ヒットして、恒常的活動となりました。 一方、関西での解散で残ったメンバーは、宝塚の少女歌劇「ヴェニスの一夜」で成功して西本朝春を加え、「日本のバンドマン」の異名で中国・九州を興行しますが、西本朝春は音楽担当の鈴木康義らと途中から別行動を取り、少女歌劇の一座(男も加わる)を結成して、6年4月から浅草みくに座で日本歌劇協会の名で開演し、以後根強い活動を続けます。 以上とは別に、レコード会社でお伽歌劇レコードを制作していた佐々紅華が浅草日本館で、大正6年10月から東京歌劇座の名と「元帝国劇場専属歌劇部員出演」の看板を掲げ、自作の和風音楽劇「カフェーの夜」などの公演を開始。大成功した浅草日本館はこれから約2年半を、代表的な浅草オペラ専門館として存在することになりました。

浅草オペラに影響をあたえた外来オペラの活動
外来のオペラ活動はオペレッタや音楽劇を専門とした明治初期から続いていましたが、このような娯楽芸能が浸透してきた明治後期になると、オペラという概念が変わり始め、最高の総合芸術という堅い考えから、舞台で踊ったり歌ったりするのはすべてオペラという一般的な概念へと変ってきました。 これを決定づけたのが明治33年に来日したバンドマン喜歌劇団です。イギリスのモーリス・バンドマンが東洋を巡業するためにロンドンで編成した団体で、50人前後のメンバーに10人前後のフル・オーケストラがついていました。 彼らが浅草オペラの活動に強い影響を及ぼしたことは、西本政春、河合澄子と獏与太平らのグループが「日本バンドマン一座」と名乗っていることや、演目についても訳編させたものがレパートリーに取り入れられていることからも察することができます。

オペラの大衆化をリードした演劇人たち
当時、浅草六区は見世物小屋や映画館が並ぶ日本最大の歓楽街でした。 佐々紅華は、東京歌劇座結成にあたってローシー・オペラが、大衆、風俗、習慣とかけはなれた脚本で、しかも楽曲や動作の難易に応じて多くの分量を原作から除去してしまったのでオペラの存在を高踏的なものにしていると批判して、オペラの大衆化をはかりました。 また、「浅草は貴族のものでもなければ、特権階級のものでもない。浅草こそは人民大衆のものである。我々が浅草でオペレッタをやっているのは、過渡期の一つの手段であって、やがてはグランドオペラを大衆の中へ持ち込む前提運動なんだ」と伊庭孝は主張し、日本語での「東京歌劇座」公演は大当りをとり、名作オペレッタ「天国と地獄」も評判が良く、原信子、田谷力三、清水静子、木村時子、堀田金星、高田雅夫、原せい子ら、ローシー門下生が次々に浅草で、外国歌劇を公演するようになりました。 原信子は東京音楽学校を出て帝劇歌劇部、その後ローヤル館のプリマドンナとなり、田谷力三は三越少年音楽隊出身、ローヤル館に入団、ローシーのもとで名テノール歌手となりました。田谷にあこがれて新国劇からオペラの道へと踏み入れたのが後に藤原歌劇団を創立する藤原義江(当時は戸山英二郎)でした。 さまざまな歌劇団が生まれ、六区では終日、オペラ、オペレッタ、ミュージカルが競って上演されるようになりました。創作歌劇を中心とした「日本館」、外国歌劇を中心とした「金竜館」、多くのオペラスターが誕生しました。 ここで浅草オペラ以後の彼らを追ってみましょう。 佐々紅華はレコードオペラ「君恋し」「祇園小唄」など流行歌の作曲家としての道を歩みます。 伊庭孝はラジオの放送オペラ、音楽評論、日本音楽研究家として著書多数を出し、大正8年舞台で倒れ、絶命。わずか27歳の生涯でしたがその人生は波瀾にみちた伝説の舞踏家となりました。 石井獏は舞台で活躍するかたわら多くの舞踊家を育て、日本のモダンバレエ、モダンダンスなどの発展に大きく貢献しました。 清水金太郎はその後、本格オペラを目指しながら昭和7年志半ば、43歳の若さで他界しました。 原信子は渡欧して、イタリアのミラノ・スカラ座の専属歌手となり、帰国後は藤原歌劇団で上演しました。 田谷力三は生涯、89歳で亡くなるまで現役スターとして「浅草オペラ」を歌い続けた。 藤原義江はイタリアに留学、欧米各地のオペラを見た後、帰国して藤原歌劇団を創立、日本のオペラ運動を推進しました。 「浅草オペラ」の先駆者たちは、歌劇というスタイルを確実に浸透させ、そして彼らの志は八十余年後の今日、日本オペラ界に改めて何かを語りかけているかのように思われるのです。

浅草オペラの最盛期
大正7年から9年は浅草オペラの量的な最盛期です。 第一の特徴は、観客や出演者がすべて若いため、グループやメンバーが絶えず変動し定まりませんでした。 人気女優の河合澄子ほかと、後に映画監督になる獏与太平が、大正7年4月にお色気作戦略絡みで第2次の日本バンドマン一座を名乗ったものの、旅興行後に結局解散。その後、河合澄子は横浜の朝日座で帝劇出身の杉寛と一座を組み、また獏与平太は地方回りで広島に芸者歌劇団を作ったり、進歩的文士による常盤歌劇団を作りましたが、これもすぐに崩壊します。 田谷力三は7年秋に突然原信子一座から脱退して、佐々紅華と清水金太郎・静子夫妻の東京歌劇座(石井獏は脱退した)に加入。新たに七声歌劇団と名乗って、オペラ興行を本格的に開始した金竜館に移ります。 原信子は8年3月に無節操なオペラ界に愛想が尽きたと一座を解散して引退。 離婚問題ほかで苦労した歌舞劇協会の高木(離婚後は永井)徳子は、有楽座で野心的な「沈鐘」を発表した後、大正8年3月九州巡業中に急死。 5月に伊庭孝は新たに松竹の公演で新星歌舞劇団を組織し、強力な態勢で各地の松竹系劇場上演を開始。8月から清水夫妻、田谷力三もこれに参加。 日本館は、7年4月に東京歌劇座が巡業で去った後、鈴木康義主宰となった少女歌劇団のほか、東京歌劇座を脱退した石井獏らのグループ(沢モリノがスターで後にオペラ座と名乗る)や以前の原信子一門、ときには歌舞劇協会等が上演し、常時オペラ専門館としての活動を続けましたが、大正9年4月に映画併演を開始、8月には完全な映画館に変わりました。 根岸一族が経営する金竜館は、9月9日に新星歌舞劇団から幹部全員を引きぬいて根岸大歌劇団を結成。同年3月の大恐慌(好景気の反動)以降の不景気到来と、本格的なロシア歌劇団来日等の影響で、一般の浅草オペラ熱は去り金竜館時代が出現します。

金竜館時代
大正9年から大震災までの3年間は、東京での浅草オペラはほぼ全演目が金竜館で上演されました。上演内容と演者及び観客の質が格段に向上し、金竜館は黄金時代を迎えることになります。 金竜館は9年末に大改築して「カルメン」の全曲上演など正党派各舞台の充実を図ります。全盛期に比べるとかなり観客数は減ったものの、51万2千余り。「オペラ年鑑2000」による現在の全東京で年鑑オペラ舞台354回(入場者推定45万)に比較すると浅草オペラがどれほど強い支持を得ていたかが分かります。

大震災後の浅草オペラ
大正12年9月1日の関東大震災で、オペラの大小道具衣装や楽譜も焼失したため、しばらく旅興行や、東京でも浅草以外での上演が続きました。 その後、清水夫妻、田谷力三ほかの森歌劇団が発足します。ほかに関西で若手のグループが登場して競演しますが、無理を重ねた舞台内容の貧弱さに加え、人々の興味も次第に色あせていきます。 多数のグループの複雑な出現がありましたが、結局大正14年10月浅草劇場で、田谷力三、清水夫妻の「オペラの怪人」を最後に、浅草オペラは消滅しました。

協力
テプコ浅草館

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