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すみだゆかりの人物

    

あ

あかさたなはまやらわ

■ 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ) 1892-1927年 作家。

幼い時を本所で過ごす。
両国高校の前身である旧府立三中を卒業。
「羅生門」「鼻」「杜子春」など有名作品が多数あるが、大好きであった隅田川のこと「大川の水」「本所両国」「大導寺信輔の半生」など本所を描いた作品も多い。

■ 伊藤左千夫(いとうさちお) 1864-1913年 歌人、小説家。

本名は「幸次郎」。
千葉生まれ、上京し牛乳屋で働き、本所に独立し牛乳搾乳業を営む。
子規選募集短歌に歌が選ばれ、正岡子規に師事、「馬酔木(あしび)」「アララギ」を刊行。「野菊の墓」は代表作。
錦糸町駅前に牧舎兼住居跡がある。

■ 烏亭焉馬(うていえんば) 1743-1822年 江戸後期の戯作者。

本名「中村英祝」、通称「和泉屋和助」、「立川焉馬」「談洲楼」「桃栗山人柿発斎」とも号した。
本所に住み、大工棟梁を業とし足袋商店も兼ねた。
狂歌を好み、芝居も幼い頃から好きであった。
浄瑠璃「花江都歌舞伎年代記」「太平楽巻物」「碁太平記白石噺」などが代表作である。

    

か

あかさたなはまやらわ

■ 勝海舟(かつかいしゅう) 1823-1899年・本所生まれ。 幕末・明治の政治家。

下級幕臣勝小吉の長男で通称「麟太郎」、名は「義邦」、「海舟」は号。
幼い頃、将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめた。
剣術を得意とし、蘭学を身につけた。
本所に育ったが、蘭学修学のために赤坂に移り兵学塾を開いた。
上書し識見を幕府有司に知られ、長崎で始まる海軍伝習に幹部学生として派遣される。
その後、咸臨丸の艦長としてアメリカを往復し、その成功が認められ幕府の軍艦奉行に任命される。幕府の高官として江戸無血開城を果たした倒幕の立役者である。
明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍、また旧幕時代の記録を編集・刊行した功績も大きい。

■ 葛飾北斎(かつしかほくさい) 1760-1849年 江戸後期に活躍した浮世絵師。

本姓は「川村」。本所生まれ。
「北斎」は一時の画号で生涯に30回ほど改号している。
代表作は「富獄三十六景」「北斎漫画」など。

■ 河竹黙阿弥(かわたけもくあみ) 1816-1893年 歌舞伎作者。

本名「吉村芳三郎」。日本橋生まれ。
14歳で勘当され、貸本屋の手代となり乱読多読、芝居界に縁を生じる。
作品総数は360。
終焉の地が墨田区であった。

■ 吉良上野介(きらこうずけのすけ) 1641-1702年 江戸中期の幕臣。

名は「義央(よしなか)」、通称「上野介」。
「忠臣蔵」の中心人物として有名。
父の後を継ぎ、高家となり肝煎をつとめた。
江戸城中で礼式指導で侮辱されたと赤穂藩主の浅野長矩に斬りつけられ負傷する。
切腹となった長矩の家臣は、義央が浅野家を追いこんだ仇敵とみなし赤穂浪士に邸を襲われて殺害される。屋敷跡が本所松坂町公園にある。

■ 幸田露伴(こうだろはん) 1867-1947年 小説家。

名は「成行」、別号「蝸牛庵」。
江戸下谷生まれ。兄は千島探検家の郡司成忠、弟に歴史家の幸田成友、妹に音楽家の幸田延、安藤幸。
少年時から和漢の諸書を読み、独学で教養世界の土壌を培った。
第一回文化勲章受章。

■ 小林一茶(こばやしいっさ) 1763-1828年 江戸後期の俳人。

名は「弥太郎」。
奉公で江戸に、俳諧を学び7年に渡り旅をし江戸に戻る。
筆録を好み、日々の所感を認めたおびただしい数の句日記や撰集類を残した。

    

さ

あかさたなはまやらわ

■ 三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう) 1839-1900年 落語家。

名は「出淵次郎吉」。
江戸湯島切通し生まれ。
親に反対されるも、画家の修業もするも、落語家にしか向かないと家族が諦め、自作自演を手始めに多くの創作噺で人気を得る。
名士にも愛され、落語家の社会的地位を向上させた。
本所に住んでいたことがある。

    

た

あかさたなはまやらわ

■ 鶴屋南北(つるやなんぼく) 歌舞伎俳優、歌舞伎作者。

代表作に「東海道四谷怪談」「隅田川花御所染」などがある。
春慶寺に墓碑がある。

■ 遠山金四郎(とおやまきんしろう) 1793-1855年 江戸幕末の幕臣。

名は「景元」、「金四郎」は号。
小納戸より小譜請奉行、作事奉行、勘定奉行公事方を経て北町奉行、一度大目付に転じるも異例の人事で再び南町奉行をつとめた。
屋敷跡が菊川駅近くにある。

    

は

あかさたなはまやらわ

■ 長谷川平蔵(はせがわへいぞう) 1745-1795年 江戸幕府の役人。

「本所の銕」と呼ばれ放蕩であった。
火付盗賊改としての活躍は池波正太郎「鬼平犯科帳」で有名だが、犯罪人逮捕および裁判ではかなりの敏腕だと言われている。

■ 藤牧 義夫(ふじまき よしお) 1911年-1935年失踪 群馬県館林市出身の版画家。

16歳で上京後商業図案などを学ぶかたわら、ドイツ表現主義の影響を受けつつ独自の版画様式を確立する。
1932年に小野忠重ら22名によって結成された新版画集団に参加して頭角をあらわし、22歳で帝展入選。23歳で大作「赤陽」を手がけるも、24歳で「姉方に行く」と言ったまま家を出て、そのまま失踪。
関東大震災からの復興を果たしつつあった大都市・東京の風景を、光と影に対する鋭い感覚をもって独自の視点から構成し表現した。
白鬚橋や三囲神社など隅田川周辺を書いた全4巻・全長60メートルに及ぶ「隅田川絵巻」があり代表的作品と言われている。

■ 舟橋聖一(ふなはしせいいち) 1904-1976年 小説家、劇作家。

本所生まれ。
東京帝大学在学中に河原崎長十郎らと劇団「心座」を結成、卒業後は劇団「蝙蝠座」を起こし、新興芸術派の運動に参加。
「ある女の遠景」で毎日芸術賞を受けた。
日本文芸家協会初代理事長である。

    

ま

あかさたなはまやらわ

■ 松尾芭蕉(まつおばしょう) 1644-1694年 江戸前期の俳人。

名は「宗房」、はじめ「宗房」を用い、後に「桃青(とうせい)」と号した。
10代から俳諧を始め、俳諧師を目指し上京する。
長命寺に「いざさらば」の句碑がある。

■ 森鴎外(もりおうがい) 1862-1922年 明治・大正の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医総監。

名は「林太郎」。
島根県生まれだが、幼い時に上京。
夏目漱石と併称されることが多く、相並んで明治の精神と倫理を体現した。
向島に住居跡地がある。

    

や

あかさたなはまやらわ

■ 山上憶良(やまのうえのおくら) 660-733年 万葉歌人。

701年、遣唐使船に同行し、需教や仏教など最新の学問を学ぶ。
帰国後は東宮(聖武天皇)の侍講となる。
数多くの歌を詠んだ。向島百花園には歌碑がある。