TOP > すみだの歴史

歴史

「隅田川」の名の由来は…?定説はありません。
角田川、住田川または墨田川と記したものもあり、文人は好んで洒落て墨陀、澄陀など、中国の河にならったりもしていたそうです。
奈良時代、律令国家が成立し隅田川が下総国と武蔵国の国境に定められました。
奈良の東大寺正倉院に伝わる戸籍によると、養老五年(721年)頃の向島地域は、葛飾郡大嶋郷という村落の一部であったとされています。
平安時代初め頃、幹線道路が大嶋郷を通過し、隅田川には渡船場が整備されました。
在原業平の都鳥の故事は、この渡を舞台にした物語だとされています。
向島地域は、渡の整備により都と地方を結ぶ村落として栄えました。
平安時代末期、隅田川の周辺には隅田宿と呼ばれる集落ができ、交易の場として発展しました。
源頼朝が隅田宿に大軍を駐留させた記録も残っています。
都人や各地の商人が宿を訪れ、そんな旅人たちの伝説も生まれました。
室町時代の能「隅田川」で有名な梅若丸をめぐる悲劇も、隅田宿を舞台にした代表的な伝説の1つです。
徳川家康の江戸開府を契機に、本所の開拓が行われはじめ、明暦(1657年)の大火以後、更に本格的に行われます。
犠牲者の供養のため回向院が建立され、両国橋がかけられました。
本所地域は、武家屋敷、寺社、町屋で構成され、忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷もありました。
向島地域は、農村の景色が広がる一方で大名下屋敷なども散在していました。
野菜や果物の栽培を行い、江戸の町から肥料の供給を受けていました。
江戸幕府が倒れ、墨田区域は明治元年(1868年)に東京都の管轄に入り、明治11年(1878年)には本所区と南葛飾郡に編入されました。
明治以降、武家屋敷跡が容易に取得でき地価が安いことや水運の便がよく、多くの工場が建てられ、産業の中心になりました。
大正12年(1923年)の関東大震災によって大きな被害を受け、とくに本所区の被害は甚大でした。
帝都復興計画によって大規模な土地区画整理が行われ、より多くの工場が密集し労働者で賑わう東京有数の人口過密地域となりました。
昭和7年(1932年)には、隅田村、寺島村、大木村、吾妻村が合併され向島区が誕生しました。
昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲をはじめとした米軍の空襲を受け、再び焦土となり、人口が戦前の25%まで現象しましたが、東京都の区域の再検討が行われ、本所区と向島区が統合され、昭和22年(1947年)3月15日、墨田区が誕生しました。
昔からの人情と文化、活力のあふれたこの街に新しいシンボル(スカイツリー)がやってしました。