七福神巡り

七福神めぐり
七福神めぐり

大黒天 恵比寿 毘沙門天 福禄寿 福禄寿 布袋尊 寿老人・寿老神 寿老人・寿老神 弁財天 七福神とは…

福徳をつかさどると信じられた七種の神。
1420年に京都で七福神の風流行列の行なわれた記録がある。
都市商業社会で流行し、正月初夢に、宝船に七福神が乗り組んだ絵を枕下に敷いて寝る、
初詣に七福神をまつる社に参詣するなどの習俗がある。

では、七福神の歴史は…?
鎌倉時代、日本古来の守り神「恵比寿」の信仰に、中国を経てインドから「大黒天」、「弁財天」が加わりました。
室町時代にかけて三神の信仰が庶民に深まってきますと、「毘沙門天」「布袋尊」「福禄寿」「寿老人」の
四神が加えられ、人々の願望に応える七福神として信仰の象徴となったと言われています。
浅草名所七福神詣は、江戸市中でも有名だったそうで、戦後一時期やむなき中断しましたが、
昭和52年~復活、今に受け継がれています。

時代屋の人力車で巡るコースもあります。

大黒天
【大黒天】浅草寺。詳しく知りたい!

大国主命(おおくにぬしのみこと)といわれ、五穀豊穣、飲食の神様。

古代インドのマハーカーラ神のことで、悪魔退散の強力な守護神。
仏教の日本へ伝播とともに、魔を払う軍神、地方では食糧をつかさどる神として崇られる。
室町時代になって「大黒」「大国」の音読みが似てることから大国主命になぞられるようになった。
大衆化され、いつしか軍神の性格が弱まり、糧食、財宝の神として今日に至っている。

●浅草寺
台東区浅草2-3-1 メトロ・東武鉄道 浅草駅5分

推古天皇三十六(六二八)年三月一八日未明のこと、隅田川に投網漁をしていた漁師の浜成・竹成兄弟の網に一体の仏像がかかり、土師真中知は観音像と知り、深く帰依して、自宅を寺としてその観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。
大化元(六四五)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立し、ご本尊は秘仏と定められ、武蔵国の観音信仰の中心地となりました。
鎌倉時代以降になると、将軍自ら帰依するに及び、名将たち篤い信仰を集めて、いよいよ観音霊場として知られるようになりました。
江戸時代、天海僧正の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、堂宇の建設修復の完成は、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民のあいだに親しまれ、以後の隆盛をみるようになったのです。
浅草寺に祀らせている大黒天は、俗にいう米びつ大黒として、江戸以来、市民の崇敬を集めてまいりました。

恵比須
【恵比須】
浅草神社。
詳しく知りたい!

古事記に登場する少名彦命(すくなひとのみこと)がそのモデルといわれ、海と船の商売の神様。

海から渡来する神、大漁をもたらしてくれる福神として、古くから招福、開運を
祈願する人びとの尊信を集めていました。
浅草神社の恵比寿ご神像は、極彩色の見事な木彫りで、そのお姿はたいへん温和で、
古くから浅草寺の大黒天と対をなして信仰を集めています。

●浅草神社
台東区浅草2-3-1 メトロ・東武鉄道 浅草駅5分

推古天皇三十六(六二八)年三月十八日、隅田川で漁をしていた浜成・竹成兄弟の投網に観音ご尊像が現出なされ、郷長の土師真中知は、これを拝して篤く敬い、自宅に奉安し、朝夕に礼拝して、その生涯を安楽に終えました。
中知の歿後、、嫡子が観音様から「あなたがたの親は、わたしを海中から救い上げて篤く供養してくださった。それはそれは誠に賞すべきものだった。あなたがたは、親御さんたちの御魂を神として敬い祀りなさい。三社権現と称してお祀りすれば、きっと子孫と土地の繁栄はまちがいない」という夢告を受け、それ以来、祖先神、郷土神として篤く祀られることになったと伝えられている。
ご祭神は、中知・浜成・竹成の三神を主座神とし、大国主命と徳川家康公を合祀している。
浅草神社では、江戸三大祭りの一つ「三社祭り」が「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる江戸っ子の心意気を示して、神と人とが一体になって行われることは周知のとおり。
三社祭りの歴史は古く、一読には正和元(一三一二)年の船祭りに始まるといわれていますが、江戸期に入って、三代将軍徳川家光の社殿ならびに神輿の新たな造営を機に、江戸市中の一大イベントとなりました。

三社祭りのいなせな男ぶりで想い出されるのは、蔦一門の総師新門辰五郎。
妻の重病が伏見稲荷社の神徳によって快癒したことに感謝して、神体倉稲魂神を浅草神社に末社として勘請したのが、被官稲荷社です。

昆沙門天
【毘沙門天】
待乳山聖天

多聞天ともいい、軍神で災難よけの神様。

古代インドのバイシュラナのこと。常に仏の道場を守り、
説法をよく聞いたといういわれから「多門天」とも呼ばれています。
左手の宝塔は福をもたらす徳、右手の鋒は邪を払い魔を降す徳を示す。
そこから、財宝をもたらし心に勇気と決断を与えてくれる、物心ともの福徳を施す神といわれています。

●待乳山聖天
台東区浅草7-4-1 メトロ・東武鉄道 浅草駅7分

推古天皇三(五九五)年九月二十日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。この不思議な隆起は、実は十一面観世音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい前ぶれであったのです。それから6年後、天候不順に人々が悩まされ永い日照り続きは、人を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。
このとき、大聖歓喜天がご出現になり、人々を救ったそうです。
それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると、天安元(八五七)年、慈覚大使が東国巡拝のおり、当山に籠って浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。
ご本尊の大聖歓喜天は、仏法を守護する大本の神様として、ことに庶民の迷いを救い、願いをかなえてくださる広大な抱擁力を持っています。当山の紋章には、巾着と二股大根が組み合わせれており、巾着は砂金装のことで商売繁昌を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しています。

福禄寿
【福禄寿】
今戸神社。矢先稲荷神社。

福は幸福、禄は財宝、寿は長命を意味し、人間の生活を楽しませてくれる神様。

白髪童顔の温和な姿。
年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康で長命)。
3つの福徳を授ける福の神として、古くから尊信を集めています。

●今戸神社
今戸1-5-22 各線浅草駅 15分/都バス浅草7丁目、リバーサイド・スポーツセンター 3~5分

後冷泉天皇康平六(一〇六三)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・頼家父子が、勅令によって欧州の夷賊安倍貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の鶴岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
その後、白河天皇永保元(一〇八一)年、謀反をおこした清原武衛・家衛討伐のため、源頼家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ちいくさをおさめることができ、義家は、神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されること、しばしばでした。
江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、舟越伊豫守と八木但馬守に命じて、寛永十三(一六三六年)年に再建が成りました。
被災=再建の歴史をくりかえしながら、同四十六年十一月、現在の荏厳な社殿が、氏子崇敬者の浄財によって造営されたのです。
その間、昭和十二年七月に今戸の隣地に鎮座されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。

布袋尊
【布袋尊】
橋場不動院。

布袋和尚として親しまれ、子供教育、度量、忍耐を司どり円満な家庭にも恵まれる。

布袋尊は、中国の後染の実在した禅僧で名を契此(かいし)という。
常に笑顔で福々しく体躯肥大、粗衣をまとった姿は物事にこだわらない
人格の大きさを感じます。後染貞明三(917)年に寂滅するや、
世人は弥勒菩薩の化身であったと信じ尊び画幅にして信仰したということです。
不動院のご尊像は、江戸のころから伝わり、お腹の袋代わりの形が珍しい。

●橋場不動院
橋場2-14-19 各線浅草駅 20分/都バス橋場2丁目 2分、清川2丁目、橋場2丁目アパート前 1分

不動院(橋場不動尊)は、天平宝字四(七六〇)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良井僧正の第一高弟寂昇上人によって開創されました。当初は法相宗でしたが、長寛元(一一六三)年に宗派を改め、鎌倉期以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
ご本尊の不動明王は、良井僧正が相州大山寺で修法(国家または個人のために加持祈祷する方式)しながら刻んだ一木三体不動のうちの一体で、開運、厄除け不動の秘仏となっていて拝観することはできませんが、お前立のご本尊としての不動明王(鎌倉時代の作)は、あたりを圧する偉容で世の中の災厄を払っており、江戸市民から久しく尊信されてきました。江戸時代には、周辺の三条公、有馬侯、池田備前侯などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和二十年三月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として、現在でも広く庶民に尊信されています。
現在の本堂は、弘化二(一八四五)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいを示しています。

寿老神 寿老人
【寿老神】【寿老人】
石浜神社。鷲神社。

石浜神社。
鷲神社。
動物愛護、生命の尊重、そして学問、芸術、知恵の神様。

石浜神社は「寿老神」。道教の祖老子、あるいは南極星の化身といわれ、白髪、長髪で
長寿の福徳を記した巻物をつけた杖をもち、二千年の齢の玄鹿をはべらせています。
鷲神社は「寿老人」。開運、延寿、福徳、叡智の福神として尊ばれ、とくに長命、
学業成就を願って多数の人が訪れます。

●石浜神社
荒川区南千住3-28-58 日比谷線南千住駅 15分/都バス南千住3丁目 3分、橋場2丁目 5分

聖武天皇神亀元(七二四)年九月、勅願によって当地に鎮座され、源頼朝が藤原泰衡征討の折、当地に祈願して「神風や伊勢の内外の大神を武蔵野のここに、宮古川かな」と詠み、大勝の目的を果たしたので、後日、社殿を造営寄進し、神恩に報いました。
建久・正治(一一九〇~一二〇〇)のころ、千葉氏、宇都宮市の尊崇が篤く、また関八州の庶民が伊勢参宮にかえて当社に詣で、お祓を受けました。東に隅田川、西に富士、北に筑波を遠望する清浄な地で、神域にふさわしく、隅田湖畔の名所として庶民の信仰あつく、隆昌を見たので、『隅田名勝八景』『江戸名所図会』『東都歳時記』『江戸砂子』などに取りあげられております。
境内には、真先稲荷、招来稲荷、江戸、北野、妙義八幡、粟島水神、大工祖神鹿香の摂末社、それに富士遙拝所があり、亀田鵬斎の隅田川詩碑、『伊勢物語』の都鳥の碑などもあり、鳥居は独特なのものです。
お祭神は、天照大神、豊受大神で、伊勢の大神様をお祀りしてあり、朝日神明宮とも言われております。

弁財天
【弁財天】
吉原神社。

「財」を司る女神で子孫繁栄の神様。又、信仰すると恋愛にも恵まれ、声もよくなる。

古代インドのサラスパティという名の豊かな川の女神で、知恵、技芸、
財物の福徳を有すると言われています。悪声を川のせせらぎのような美声に
変える神徳があると信じられ、別名「妙音天」といいます。

●吉原神社
千束3-20-2 日比谷線三ノ輪、入谷駅 15分/都バス吉原大門 5分、千束 5分

元和三(一六一七)年、徳川幕府の命によって、江戸市中各地に散在していた遊女屋は、日本橋葦町あたりに廊として統合されました。これが「江戸元吉原」です。その後、明暦三(一六五五)年の大火のあと千束村に移転を命ぜられ、そこに新しく造られたのが「新吉原」ということになります。
新吉原遊廊には、古くから鎮座されていた玄徳稲荷社、それに廊内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九郎助稲荷社が祀られておりました。
この五社が、明治五年に合祀されることになり、「吉原神社」として創建されました。吉原神社の歴史は、新吉原遊郭のそれと折り重なり、廊の鎮守の神として、古くから崇敬されてきました。
江戸時代の祭礼には、花魁、太夫(遊女の中でも最高格式を有する者)の道中行列や、即興劇「任和賀」などで賑わいましたが、現在は近くの境内飛び地の緑苑に建てられている「花吉原名残碑」が、わずかに昔を語っています。
吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命と、弁天様である市杵嶋姫命で、開運、商売繁盛、技芸上達などのご神徳です。

人力車で巡るコースもあるよ!
お問合わせは時代屋へ
info@jidaiya.biz
TEL 03-3843-0890


浅草七福神めぐりの記念に、各社の御朱印や福絵馬をどうぞ!!

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※取扱いのない時期があります。
色紙・御朱印(各社)

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